幸いを風に祈るよりも














くい、と力を込めると扉は呆気なく開いた。どうやら鍵など掛けていないらしい。
無用心な、と少し眉をひそめながらこっそり部屋に忍び込む。
この場合は鍵が掛かっていなくて好都合だった。間取りは彼の部屋と同じ筈だが、床が広々と見えているだけで何倍かの広さがあるように思える。
この部屋では既に私物が綺麗に片付いているが、彼の部屋ではそうでないというだけの理由だが。一昨日引越してきたとはとても思えないほど、以前の部屋と同じく機能的な印象になっている。
そんな中で、ブラインドの隙間から漏れる朝の陽射しが、もこもこと人の形を隠した掛け布団を薄く照らしている。
悪戯心を刺激されて、彼は助走をつけて寝台に飛び上がった。片膝を軸に体勢を変え、眠りこけている相手の身体に馬乗りになる。どすんと落ちた質量に、布団の下からあっ、というような叫びが上がった。彼エマニュエル・フォン・フォーグラー、時に18歳。年の頃から言えば小柄な方だと思っているが、寝ている誰かの上に勢いよく飛び乗って相手を叩き起こすには充分以上の体格である。
助けを求めるように、掛け布団の下から伸びた腕がぱたぱたと枕の縁を叩く。
どうやら被害者はうつ伏せに寝ていたらしい。不明瞭に間違った名前を呼びながら、身体の向きを変えようともがいている。咽喉の奥で笑いながら彼はするりと床に降りた。
素早く半身を起こした被害者、呉学人は何か言いかけた口を開いてしばし絶句した。
「え、エマニュエル…?」
「ファルにしては重過ぎる、とかわかるだろ?」
その昔日曜日の父親を叩き起こした経験から言うと、双方互いの体格がよくわかるのだ。
例えば、先月より少し痩せている、といった些細な変化でも。
これをやってもいいのはファルメールだけ、という暗黙の了解が呉学人の判断を歪めたのかも知れないが。目覚まし時計を見て小さくうめいた相手に、
さっき気になったことを言っておこうと思い立つ。
「それはそうと、せめて鍵だけでも掛けといたらどうだよ?何かあったら危ないだろう」
もっとも、例えば外部から誰かが侵入するためには、まず実験施設全体のゲート、次に居住区画のゲート、そしてフォーグラー家の玄関に当たる扉を抜けなければここまでは到達できない。
「そうかな。…ああでも、こんな起こされ方をするのでは、確かに危ないかも…」
「言ったな!」
自分のやったことは棚に上げて、と呟いた呉が短い欠伸をかみ殺す。
「それで、こんな時間から何を企んでいるんだい、エマニュエル?」
「今日はここの中を探検しようと思うんだけど。三人でさ」
「たんけん?」
その単語だけで問い返されるとわくわくしている自分が子どもっぽく感じられるけれど。
でもこれから暮らす場所は詳しく知っておかなければ、と興奮を正当化する。
「そう。どうせまだ何も用はないだろう?な?…じゃあ、ファルを起こしに行くから、食堂で待ってて。朝ご飯も一緒に食べよう」
言い放ったエマニュエルはそのまま走り去り、呉は溜息混じりに笑うと身支度に取り掛かった。


三人で探検、という提案はファルメールを甚く喜ばせた。コーンフレークを小鉢に注ぎながら、エマニュエルも得たりとばかりににこにこする。
「…確かに完成前に一回、父さんと見に来たことがあったけど、その時は外側しか見られなかったしね」
「丘の上でピクニックみたいだったのよ、本当に」
ミルクピッチャーを手にファルメールが呉に自慢する。彼女にとっては貴重な家族旅行の記憶だ。
「うん、そう言っていたね。また花の咲く季節が来たら、博士達も誘ってピクニックにしよう」
「駄目なら三人でこっそり抜け駆けしような、ファルメール」
忙しい大人達を巻き込める可能性は低いのだが。
「とにかく、どうせそのうちあちこちの財団とか政府関係者みたいな人達が見学に来るんだから。ここで暮らすんだから早いうちにいろいろ見ておかないと」
人は記憶を積み重ねて場所を覚える。エマニュエル自身も早く住み慣れたいと思うが、何より妹がここに馴染むことが大切だと思う。
「それで、できたら研究棟の屋上にも上がりたいんだよね」
どうだろう、と話を振られた呉はちょっと首を傾げた。
研究棟はランドマークタワー然とした建物でかなり高さがある。
「屋上は閉鎖されているかも」
「うーん。でも緊急用のヘリポートがあるっていう話だったから、
通路はあると思うよ。きっとすっごい見晴らしだよ、高さがあるから。
今日は天気もいいし、ずーっと遠くまで見えるよ」
ファルメールは自慢そうな兄を見てスプーンを下ろした。
「…前のお家は見える?」
慣れない場所に、不安を感じているのだろう。エマニュエルは何気なさそうに笑顔を作った。
「あー、それはムリだけど」


三人並んで研究棟の階段をとことこ登る。どうせならピクニック気分で、と作ったサンドイッチの包みと紅茶の魔法瓶はリュックサックに詰めて呉が背負った。
それでエマニュエルの背中のリュックサックに何が入っているのかというとピクニック仲間は知らない。
非常階段に人気がないのは当然としても、建物は全体に静まり返っていた。
博士達は既に準備や打合せに忙殺されて研究棟に入り浸っているが、研究設備はどれもまだ本格稼動していない。呉はフォーグラー博士の助手であるし、エマニュエルも新たに助手として(多分正確には助手の手伝いくらいだろうけれど)加わることになっているが、まだ彼らの出番はない。それだからこそ、こうして遊んでいられるのだけれど。
時折スパイよろしく忍び足でフロアを一周ながら、遂に一向は目的地への扉を前にした。
これまでよりも幾分細い階段が、扉の前に狭い踊り場を残して途切れている。
扉にも、周囲の壁にも、そして意外に低い天井にも、窓はなかった。
ただ、扉の上に保安灯が一つ付けられている。先頭を切って扉に近付いたエマニュエルは後続の二人を振り返って頷いた。
「ここを出れば屋上のはずだよ」
扉が施錠されていることは、パネルの表示で明らかだった。
この扉は管理権者により封鎖されています、というメッセージ。
「…出られるだろうか…?」
呉は自分のIDカードを取り出し、カードリーダーの前で躊躇った。
研究棟の入り口に対しては有効だったが、こんなところまで開けられるだろうか。
「…扉を開ける呪文は、『開け、ゴマ』でしょう?」
深刻そうな背中に、ファルメールが助け舟を出す。
「よし、ファル、それだ。いいか、皆で言うぞ」
何しろこれは探検だから、というエマニュエルの音頭で三人は呪文を唱え、同時に呉はカードをスリットに通した。ぴっ、と音がしてパネルにはさっきまでと同じ文章が現れた。
「…ああ、呪文が違うみたいだ」
折角登ってきたけれど、これではどうしようもない。
「じゃあ開かないの?」
率直にがっかりした妹の頭に軽く手を乗せて、エマニュエルは笑った。
「いいや、ファル、そんなことはない。正しい呪文を探せばいいのさ」
まだ埃一つない床に膝をつき、エマニュエルは背負っていたリュックサックを下ろした。
「エマニュエル?」
怪訝そうに振り返った呉に、携帯型のコンピューターを差し出す。
「ほら、これで正しい呪文を探してよ」
このことあるを予想してわざわざ持ってきたんだから、と得意そうな表情である。
呉はため息を一つついてエマニュエルの前にしゃがんだ。
「違法行為」
「だって、ここが開かなかったら屋上に出られないんだから。システムを破壊するとかじゃなくて、ちょっとごまかせばいいだけだろう?シズマ博士か父さんの名前なら、管理権が強いから何とかなるんじゃないか?」
「だけど…」
「なぁ、ファルメール、屋上に出てみたいよな?」
兄の笑顔と、もう一人の兄の困った顔を見比べて、ファルメールは少し迷った。
迷ったけれど、気持ちはもう決まっている。
「…出られるの?」
エマニュエルではなく、呉の方に尋ねる。しかも心配そうな中にも期待を滲ませて。
呉学人の負け、である。
「…努力はしてみるよ、ファルメール」
事が決まれば呉の仕事は速い。エマニュエルのリュックサックから選び出したケーブルでコンピューターをパネルの周辺に接続する。少し操作してあれこれ情報を打ち込んであとは待つだけ。関連のありそうな数字や名前を与えたので、その組み合わせや順番を変えながら次々に試すのは機械に任せておけばいい。


個人が秘密のパスワードを使う方法は古い。古いだけに様々な工夫が凝らされ、今も個人確認などに良く使われる手法だ。
それでも、古くから知られている逃れがたい欠点がある。
例えば、覚えやすさを優先することで他人にも推測可能なパスワードを使ってしまうこと。
今でもパスワードを求める側は、生年月日などからなる安直なパスワードを使わないよう呼びかけ続けている。
でも、研究には熱心だけれども浮世離れした性格のフォーグラー博士にはありそうなことだと思う。
呉がそんなことを考えている間に研究施設のシステムがフォーグラー博士を認証した。
勿論、試行錯誤の結果であることは誤魔化されるように手を打ってある。
「…開いたよ」
階段に腰掛けて待機する構えだったファルメールがぱっと立ち上がる。
「本当?」
答える代わりに呉は立ちあがって扉を開いた。青空が一陣の風となって階段に吹き込む。
きゃあ、と小さく歓声を上げたファルメールが青空の下に飛び出した。
「すごいすごい。…で、秘密の呪文は何だった?」
さすがに父さんもパスワードに自分の名前とかは使わないだろうし、誕生日かな?それとも、と楽しげに言うエマニュエルの声も爽やかな風に包まれている。
建物が円筒形なので屋上も丸い。中心にヘリポートであることを示すペイントがあるだけのあっさりした空間。接続ケーブルを外しながら、呉は眉をひそめた。
「これだけでも相当良くないことだし、言いふらすのは博士に申し訳ない…」
「言いふらすって、そんな…。それとも、…何か他言を憚るようなすごい内容だったりとか…!?」
妹を追って駆け出そうとした勢いを忘れ、エマニュエルが扉の外で立ち止まる。
パスワードにどんな内容を想像しているのか、ものすごく深刻な表情だ。
呉は逡巡を振り切って答えることにした。
「…奥さんの名前だった、…わたしは、会ったこともない人だけど」
亡くなって久しい、兄妹の母親に当たる人。名前だけは知っていたのでそれも候補に入れてみた。思い出話を聞くこともなく、博士にとってすっかり過去の人なのかとさえ思っていたけれど。
「母さんの?」
日々自分を証し立てる言葉に、その名を選んだことがどんな理由によるものなのか彼らにはわからない。ただ、過去と現在の家族への愛情がそこに存在するような特別な気持ちになる。
温かな沈黙の中で、駈けて行ったファルメールが黒髪を風になびかせて振り返る。
「ねぇ、兄様、早くいらっしゃいよ、とってもすごい眺めよー」
弾かれたようにエマニュエルが振り返り、走り始めた。彼の歓声を聞きながら、呉も二人を追う。手に余ったケーブルの端が、風に流されて揺れる。
岩がちの平野が広がり、前方には一筋の道路が真っ直ぐ公国の首都を指していた。
うねりながら広がる大地と、透き通るような空の間にいる。呉はゆっくりと、新しい空気を胸に吸い込む。
少女は胸の高さほどある縁にもたれて、真下の地上を見下ろしていた。
一足先に風景を堪能したからというだけではなく、他にもっと見たい物があったから。
だが一人では探しあぐねて、目くるめく地面から二人の兄に目を移す。
「ねぇ、わたしたちのお家はどこ?」
「何言ってるんだファル、前の家なんて見えないって言っただろう?」
呆れたように少女は笑う。そんなこと誰も聞いていないのに。
「違うわよ、新しいお家のことよ。だって建物ばかりたくさんあって、わからないわ。
…ね、わたしたちのお家はどれ?」
風の中に、笑い声が響く。世界を祝福するように――。










(留意すべき勝手な設定)
フォーグラー博士はヨーロッパの大学に所属していたが、シズマ博士に誘われてアメリカへ移り住んだ。以降五博士はアメリカの大学で研究を行う。
また、研究が完成し、発表などが完了してからバシュタール公国に実用化に向けた開発研究のための実験施設が作られた。もちろん完成までの間はアメリカで研究が続いていた(それもあまり順調ではなかった筈だが)。

これは時間的に関係者一同がアメリカからバシュタールに移動した直後。
呉学人(本名)・エマニュエルは同い年の18歳。ファルメールは8歳。
関係ないけど父さんは44歳くらい。母親は死亡。
呉学人が研究生としてフォーグラー博士に師事するようになったのは15歳頃(アメリカ時代)。












■おわり■






弊サイトの鴨キリ番(1111HIT)を踏まれてしまった『電脳たこ壺亭』の高野亜土様から頂戴した、バシュタール三兄妹話です。自分と相方以外の方の書かれた三兄妹話が読みたいな〜という素直な欲望から、迷惑を顧みずにリクエストしてしまいました。深く反省しております。
三兄妹の、倖せな季節。彼等の行き先、結末を知っているが故に、胸が痛くなるくらいに切なくて、愛しいと思います。
本当に有難う御座いました。
そして更に、おまけまで頂戴してしまいました。重ね重ね有難う御座います。 ■こちら■ からどうぞ。


2003/03/15






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