僕と貴方と病と薬。前編














「――という訳で、お手元の資料の8ページをご覧頂きたいのですが」
今日も今日とて孔明の長広舌はキレが良い。留まる事を知らぬ、と云うのにこれ以上相応しいものは無いだろう。会議室に寄り集まった孔明以外の10人は、声に出さず、同時にそう思っていた。
今日はBF団幹部の、月に一度の定例会議。基本的に行動派である十傑集にとっては、退屈な事この上ない時間である。
こんな事に時間を取られるくらいなら、部屋でぼんやり書類でも捲っているフリをしている方が良い――そう思うのもむべなるかな。
しかし、めいめいの前に積まれた会議用資料の厚みから推測するに、どう頑張っても後3時間はゆっくりかかりそうな気配である。
溜息、欠伸が徐々に洩れ始め、ひそひそ話、内職をし始める者がぱらぱらと出始める。
会議室の空気は確実に、弛緩し切っていた。
そんな時。
「失礼します」
一人の孔明付きの女性C級が、控えめなノックと共に入ってきた。小さな紙片を手にしている。恐らく会議中に掛かってきた電話か言付けを孔明に知らせに来たのだろう。
「会議中にご無礼致します、孔明様。先程事務課長より連絡が御座いまして…」
案の定、たおやかな声で女性はそっと孔明に耳打ちする。訊かれては拙い内容の電話なのだろうか。中断した会議の内容よりもその事の方が気に掛かり、皆は二人を注視する。
猜疑、そして興味を込めて。
「…解りました、有難うございます。――ところで」
「はい?」
「――幻夜はどうしたのですか?」
孔明の問いに、一堂ははた、と気付いた。
いつもならこういう秘書めいた事は、孔明の稚児――もとい一の部下を自称する、『幻夜』という小僧がしていた筈だ。他の者が代行しようものならばギャンギャン吼え立て、喧しい事この上ない、というのは専らの噂である。
それが何故、今日に限って。
「ええ…それが、孔明様が会議に出られた後、連絡がありまして…風邪を引いたので今日はお休みさせて欲しい、って仰ってました」
「えっ…?」
思いがけぬ程間抜けな孔明の声に、一堂はぎょっとして彼を振り仰いだ。見れば、いつもはきり、と上がっている眉が下がり、皮肉っぽく笑みを浮かべる事が多い口唇はぽかん、と間抜けに開かれている。
明らかにうろたえた表情。たかが部下一人の健康状態が損なわれただけだというのに――この策士はここまで動揺するのか。初めて知る『孔明の意外な人間性』に触れ、皆は密かに微笑んだ。アルベルトなどは娘の事を考え、自分と今の孔明とを重ね合わせたのだろう、照れるようにそっぽを向きながら葉巻に火を点けている。
「何でも熱が下がらないとか…」
「何っ…」
報告するC級の言葉が終わらない内に、孔明がガタン!と音を立てて席を立った。
顔が――何処と無く蒼褪めて見えるのは気の所為だろうか。
「こ、孔明様?如何なさいましたか?」
「いえ…その…」
言葉を濁して孔明は再びストン、と腰を下ろした。しかし細かく指を動かしたり、瞳が忙しなく動いたりして――明らかに落ち着きが無い。
――本当に、意外にも程があるじゃないか。
「…孔明」
見るに見かねたのか、樊瑞が脇から口を出した。
「は、はい?」
「…少しくらいなら中断しても、別に構わんぞ。皆も少々疲れてきているようだからな、ここいらで休憩にしてはどうだ?」
それは紛れも無い事実だったので、異論無く頷く面々。その承認に後押しされたのだろうか。
「…では…」
暫し逡巡するように間を置いて、孔明が立ち上がる。
「皆様、申し訳御座いません。少々…中座させて頂きます!」
云うや否や。スタスタと大きなストライドで会議室を出ていく孔明を、そして申し訳なさそうに頭を下げて彼の後を追うC級を、十傑集達は呆気に取られ、見送る事しか出来なかった――。
暫し、気拙いような沈黙が部屋中に漂う。
「……」
「……」
そして、放って置かれた格好の十人はほぼ同時に顔を見合わせ――
「…ぷっ」
「くくっ…」
「くっ…はっは…」
これまた同時に吹き出した。素晴らしい息の合いようである。一糸乱れぬ十傑集の結束など――『十傑集』という概念がBF団に存在するようになってから、実に初めての事だ。
普段表情を動かす事が少ない十常寺、怒鬼までもが声には出さぬものの、顔を歪めたり僅かに肩を震わせたりしている。
「いやいや、何て云うか…麗しい師弟愛だねぇ」
額に手を当てて俯き、笑いを誤魔化しながらセルバンテスが楽しそうに云った。大仰に肩が揺れているので余り『誤魔化し』が成功しているとは云い難いのだが。多分、隠した瞳は涙を滲ませているに違いない。
「全く…意外じゃな。孔明があれ程取り乱すとは…」
さすがは元リーダーと云ったところか、カワラザキは元のしかつめらしい表情をいち早く取り戻している。尤もひょいひょいと髭を捻っている辺り、かなりの我慢をしているのだろうが。
「あの真っ青な顔、見たかよ!普段は邪魔だの鬱陶しいだのなんだのって云ってるクセになァ」
仕事柄『孔明一味』と接する事が多いレッドが、ばしばしと膝を叩きながら――正確には、隣に座っている幽鬼の膝を、だが――隠す事無くげらげら笑っている。
部屋がまた、笑いに包まれた。けれどその中に『嘲笑』はカケラ程も混じっていない。
そして皆、笑ってはいるものの――心の中ではちょっぴり孔明を見直していた。
冷血、冷淡、冷酷という言葉が余りにも相応しいように思える彼だが、案外心の底では優しい気持ちを持ち合わせているのだ、と。部下の心配をして会議を中断するなど、本来は有るまじき行為だが――何でだろう。何故だか『しょうがないなぁ』と許せてしまう。
何ともいじらしい。何とも可愛らしい。良いじゃないか、たまにはこういうのも。
自分達は普段、血も涙も無いような事ばかりしているけれど。
たまには有りがちな日常――誰かを心配したり、それが行きすぎて何もかもが手につかなくなったりしたり――の一幕を演じたって。
声に出さずとも、皆の瞳がそう語っていた。そして皆がそれに同意していた。
皆が『笑い』を収めて『微笑み』に変え、ほんのりと会議室が和む。徐々に話が『孔明の意外性』から雑談へと逸れていき、『自分の家では風邪の時はこうした』、『いや、うちはこうだ』というような民間療法的話題にも花が咲いた。
その時。
「お待たせ致しました!」
前触れも無く孔明がばたん!と音高く扉を開けて会議室に戻って来、一堂は訝しみながら首を傾げる。幻夜の様子を見に行ったにしては随分と戻ってくるのが早いじゃないか。
しかも、その包みは――孔明は手に、クラフトの袋を抱えて戻って来ていた――なんだろう?
「孔明…お前、見舞いに行ったのではないのか?」
代表するように残月が声を掛ける。
「はぁ?」
小馬鹿にしたような、ではなく純粋に『理解出来ない』という気持ちを全面に押し出したような声の返答に、困惑したのは十傑集達だ。
「『見舞い』?何の事ですか、残月殿?ああ、そんな事よりも!」
孔明は早々に話題を切り上げると、抱えた包みの中身をがさっと机の上に引っ繰り返した。
そこから溢れ出たのは――
「…孔明…これは…マスクに見えるのだが?」
出てきたのは真っ白の、ごく標準的なマスク。誰も数を数えはしなかったが、恐らく此処にいる人数分はありそうだ。
「如何にも、樊瑞殿。マスクです」
それがとても重大な事のようにこっくりと頷く孔明に、ますます一堂の困惑は増す。
「え?わ、悪い。何でこの話の流れでマスクが出てくるんだ?」
何となく緊迫している孔明に釣られたのか、こちらも表情を引き締め、何故か発言許可を求めるように『はい』と挙手したヒィッツカラルドが続けて訊ねた。
「何を――仰ってるんですか、ヒィッツカラルド殿。幻夜が!風邪を引いたんですよ?」
まるでこっちが不当な事を云っているような気分にさせられる、そんな孔明の表情だった。
「いや、それは解ってるが」
『いいえ、解ってらっしゃいません!』とヒィッツカラルドを一蹴し、孔明がさも恐ろしげに口唇を戦慄かせた。
これ程までに『怯えている』孔明を見るのはヤツめの初陣以来だ、とは後にカワラザキが語った事である。
「ですから、『あの』幻夜が風邪を引いたんですよ!有り得ないでしょう!?
ひょっとして新種のウイルスかも知れません!」
「「――は?」」
これが作戦中だったらどれだけ素晴らしい成果を上げた事だろう絶妙のタイミングで、全く同時に返した十傑集に対して、孔明はドン!とテーブルを殴り付け――云った。
「だって、馬鹿は風邪を引かないと云うじゃありませんか!」
何か、話が妙な方向に逸れてきているような気がする。否、ひょっとして最初から孔明は本題に居たのかも知れない。逸れてしまったのは彼を『良い方』に誤解した自分達で――。
「なのに幻夜が…幻夜が風邪を引くなんて…っ!余程強力な、或いは未知のウイルスかに違いありません!皆様まで罹患されたら大変です、さあ是非これを!もうすぐ消毒薬も来ますから、それでしっかり消毒なさって下さい!気分の悪い方はいらっしゃいませんか?!ああ、どうかお気を確かに!」
そこかよ。
所詮孔明は何処までいっても孔明だったか。
自分達の、あのほんわかした気分は一体何だったんだ。
十傑集達は己のおめでたさを諌め――そして、嘆息した。


とっす、とレッドの突っ込みチョップが孔明の後頭部に入るまで、彼は延々と、『幻夜が風邪を引く事を恐ろしさ』を語り続けたという。













後編に続く






当時存在した掲示板にとある方が書き込んで下さった一言から派生したお話。
これでも幻夜好きです。タイトルは思い付かなかったので「酒と泪と男と女」からパクりました。すみません…。


2003/05/29






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