落ち往け月よ 黎明の空へ |
男は、ふと目を覚ました。 誰かに呼び起こされたかのような感触が全身に付きまとう。 とても馴染みの深い、この感覚。 以前に感じた時から考えると、少し間が空いていたなと静かに分析を行ない (相変わらず…神出鬼没ですねぇ…) 使い方の間違った慣用句を胸の内で呟きながら、孔明は寝台から足を滑り下ろした。 床から伝う冷気がぞくりと背中を擽り、寝起きの火照った身体には一種の悦楽が走る。 やや寝呆けた頭で寝衣を脱ぎ捨て、半ば制服として義務付けられているスーツの最後のボタンをはめ終わった時、ふと壁一面を使った窓の外の大きな月に気付いた。 (……満月、ですか) 冴え冴えとした月は恐ろしいくらいに美しく、それはまるでそのままかの主を思わせた。 手が届く程近くに見えるのに、決して届きはしない所など、特に。 (何の符丁やら…尤も狙って起きていらっしゃるわけではないだろうがな) 己らしくないセンチメンタルな考えに苦笑して、孔明は音も無く部屋を滑り出た。 柔らかな布の靴が、長い廊下に敷かれた毛足の長い絨毯が、無音に拍車をかける。 と 「――エンシャクか」 ふ、と背後に降り立った気配に足を止め、しかし振り返る事はせずにそう、云う。 誰何ではなく確認の為の言葉に、気配の元も声に出す事は無くただ、頷くだけ。 しかしそれだけのやり取りでこの二人には充分だった。 「問題無い。ビッグファイア様の元に参る。お前は控えておれ」 大方この様な時間に自分が出歩くのを案じたのだろう。 何分自分は内外に敵が多い。 その忠実さには頭が下がる思いだ。 「斯様な夜分にご苦労」 労いの言葉を掛け、命令する事に慣れた所作で促すと、気配が消えたのを確認してから再び歩み始める。 孔明が再び立ち止まったのは、大きな両開きの扉の前。 誰にも見咎められる事のないまま、誰に断わる事も無く、扉に手をかける。 冷たい。 まるで主をそのまま現すかのような冷たさ。 痛みにも似たその感覚に一瞬手を退きかけるが、堪えてぐいと引く。 途端、視界に広がる、闇よりも濃い闇。 その中にあっても尚、異彩を放つ光輝く存在が目に入った。 ――呼ばれる。否、呼ばれている。 誰にも聞こえない、孔明だけに聞こえる主の声で。 久方ぶりの現に嵐を巻き起こそう、と唆す、至上の主の声が。 甘く強請るように、低く囁くように、声無き声が切なくなる程の抗い難い強さで男をずっと呼ばわっていた。 「お目覚めですか、ビッグファイア様」 部屋の中はやはり扉と同じく冷え切っていて、孔明は鼻腔の奥がつんと痛むのを感じ、やや微笑を強張らせながら『御前失礼致します』と囁き、跪く。 すると即座に壇上から面を上げるよう、声がかかった。 促されるままに、真正面から主の顔を見詰める。 何も変わってはいない。 眠りに付く前とも、そして初めて逢った時とも。 けぶるような睫毛、通った鼻梁。 薄造りの口唇は酷薄さを覚えさせ、けれど時としてあどけない笑みさえ含み。 冴えた眦は『反旗を翻そう』等という気を微塵も起こさせない程の意志の強さを秘めている。 『唯一無二の絶対的カリスマ』。 その言葉がそのまま具現化したような、現し世の支配者がそこに、居た。 「夜更けに済まなかったな、孔明。…もしかして無粋な真似をしたか?」 「ご心配には及びませんよ、ビッグファイア様。相も変らぬ独り寝の日々でございます故」 「それは何より、と云っても良いのかな。まぁ良い。急にどうしてもお前と話がしたくなったんだ」 無邪気な子供じみた口調。 けれどそこから吐かれる言葉を決してそのように軽んじてはならない事を孔明は痛い程知っていた。 「恐悦至極にございますれば」 再び深くこうべを垂れ、孔明はビッグファイアの言葉の続きを待つ。 こうして夜分に『所望』される事は多くあったけれど、大抵が叱責や急な作戦変更等であったので――つい身構えてしまう。 悲しい癖だ。 「僕が寝ている間に色々あったらしいな。十傑集が何人か死んでGR2が壊されて、草間が死んだ上に何か大きな惨劇が起こったそうだな?」 指折り数えたビッグファイアの言葉に、やはり、と自嘲に似た苦笑を口の中で噛み殺した。 「順序が色々と前後致しますが、仰る通りです。加えて申し上げますならば、GRも国警の手に落ちております」 「…律儀だな、黙っていれば知らない振りをしてやったのに」 くつくつ、と青灰色の大きな瞳が弓なりに細められる。 「正直さは人間の美徳でございますから」 「お前に云われたくない、っていう人間もいるだろうけどな」 行儀悪く足をぷらぷらさせていたビッグファイアは本気とも冗談とも付かぬ口調で云うと、突如、ぴょんと振り足の勢いのまま、椅子から下りた。 気紛れな猫のような気性は、眠っている間に少しでも落ち着いていて欲しかったのだが。 尤もそんな風になってしまえば、恐らく主は自分の敬愛する主でなくなるのだろう。 そう自分を慰めながら孔明はただ口元に静かな笑みを刻ませ、次はどう動くのかとビッグファイアの動きを目で追った。 時折主はこんな風に、自分を『子を見守る母』のような気分にさせる事がある。 「お前も何か面白いものを拾って来たそうじゃないか。おまけ付で」 と、壇上をうろうろしていた足がきゅ、と視界の端で孔明に向き直った。 「お耳が早いですね」 ビッグファイアの情報源は一体何処なのやら。 たった今目覚めたばかりで何ゆえ孔明の『拾い物』の事まで知っているのか。 まぁ恐らく…と思って見やった先、護衛団のアキレスがぴしり、と尾を打ち鳴らして『何も知らぬ』とでも云いたげに、ふいとそっぽを向いた。 「今回の目覚めは最悪だな。草間、GRにGR2。それと十傑集。僕のお気に入りのおもちゃばっかり無くなっていく。不愉快だ」 云っている事は子供地味ているのに、その声音に篭った色は途方も無い威圧感を秘めていて。 「…申し訳ございません」 反射的に、更に深々と頭を垂れてしまう。 だが、主はそれを許容しようとはしなかった。 「孔明が謝ったって仕方ないだろう。お前が悪い訳じゃあるまいし」 ビッグファイアは一見労わるようにそう云うと、ばさりとマントを翻してゆっくりと壇上から降りてくる。 コツ、と床に落ちる一歩一歩ごとの足音が、否応無しに緊張を呼んだ。 柑橘系の淡い香りが徐々に孔明を覆っていく。 主の好む香の香りは、催涙ガスのそれに良く似ていた。 それ即ち、戦場の匂い。 戦いが、支配が、いついかなる時にもこの少年王に付いて廻っている錯覚さえ起こさせる。 「 手を伸ばせば簡単に届く位置に立ち、ビッグファイアが一つ、瞬きをした。 その音さえ聞こえそうな程、空気が張り詰めている。 「私でお役に立てますのなら何なりとお申し付け下さいませ、ボス」 否応無しに頷く事しか出来ないのは、余りにも強すぎる主の、その瞳の所為。 「可愛い事を云うな。お前以外の誰に頼めるっていうんだ?」 何という甘美な誘惑。眩暈を起こしてしまいそうになり、孔明はトン、と手を床につく。 「…有り難き幸せ」 自負は、あった。 誰にも負けない自信が。 机上の策と云われても、一度も仕損じた事など無かった。 お役に立てますなら、等と殊勝な事を口にしながらも、誰も自分には敵いはしない、と。 それを『認めて』くれるかのような主の声に、泣きたくなる程の喜びが胸中に湧き上がる。 「 孔明の、肩まで伸びた髪にビッグファイアの指が絡み、くん、と引き寄せられた。 白い肌に絡む、純黒の髪。 強く握り込まれれば、締め上げられている主の指の方が痛い筈なのに何故か、痺れに似た痛みを感じているのは孔明の方で。 「……僕等のGR計画の第一段階を始動させようと思うんだ」 するり、指が、解けてゆく。はらり、髪が、孔明の頬にふりかかる。 それを掻き分けるようにゆっくりとビッグファイアの指が、頬を滑っていく。 冷たい指先、思考を落ち着かせない柑橘系の香り、銀色の柔らかげな髪、青灰色の強い瞳。 耳元に直接囁かれる、『遊び』の誘い。 誰も自分には敵わない。 そう、この氷の化身のような主以外は。 孔明は微かに震えようとする身体を理性と意地とで押さえ込みながら、ただ一言呟いた。 「 答えを聞き、満足したのか、にこ、とビッグファイアは笑んで、孔明を開放する。 彼の口元に浮かべられた、『我が意を得たり』という邪気の無げな笑み。 きっと誰よりも強く、誰よりも純粋で、誰よりも残酷な少年。 「その為に、欲しいものと邪魔なものがある。…孔明、何とかしてくれるよな?」 ビッグファイアがゆったりと窓辺に歩みより、重い遮光カーテンを左右に開く。 「っ…」 途端、闇が切り裂かれ、目を刺すような強い強い月の光が部屋中に射し込み、孔明は思わず俯いた。 振り仰いで見れば、眩むような銀の光の中、ビッグファイアがいっそ清絶とさえ呼べるような笑みで立ち、孔明を見ている。 求められている。 光の中にあっても尚、光輝くこの主に。 お前が、お前の頭脳が必要だと。 誰も敵わないこの人が、今、自分を必要としている。 答えを、待っている。 だから、孔明も笑んで立ち上がった。 何をか云わんや、自分には是しかない、と。 必要とされる限りは誰の為でもなく、この方の為に。 窓辺に立つビッグファイアに歩み寄るとその足元に跪き、孔明は彼の左手を押し戴いた。 「 満足げにえたり、と笑むビッグファイアの、そしてやや俯き加減の孔明の頬にくっきりと陰を落としながら月がゆっくりと落ちて行く。 夜明けはもう、すぐそこだった。 ■おわり■ ドミノ作戦シリーズの予告本で書いた孔明サイドSSを加筆修正。原型を留め無くなっています。エンシャクを追加投入。エンシャクも好きです。 孔明のイメージは月です。理由は解りませんが何と無く。依存して光る、というのがそう感じさせるのかも知れません。彼の場合はボスに追い付きたい、同じ視点で物が見たいという願望があるのでは無いかと常に妄想しています。ごめんなさい。 2003/01/01 re-up |
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