Living as a Person / YANG |
「これ、字が間違ってるわ。呉先生」 銀鈴は呉の手元をじっと見つめていたが、不意に勢い良く顔を上げて、まるで教師を思わせる口調で云った。 尤も、教師と云っても精々が保育園程度なのは自身も解っている。 「間違ってはいないよ、銀鈴。これは『日本の漢字』なんだ」 苦笑した呉が手元で開いているのは、日本支部からの決算報告書その他である。 こういった事務的経理的管理的な仕事は、実働活動してなんぼの国際警察機構ではどうしても後回しにされがちで、且つ忘れられがちなのだそうだ。 だがしかし、そうですか、と済ませる訳にはいかない。 仮にも国民――この場合全世界の国民の血税で口を贖っている身でありながら、その使い道を有耶無耶にするような真似は絶対に許されない。 のだそうだ。 その辺の事はまだ銀鈴には少し難しくて良く理解出来ていない。 一度上辺をさらっと教えてもらおうと呉に尋ねたところ、まず税金とは何か、から始まりそうになって慌てて逃げて以来、内容に付いては細かく考えるのは止めた。 ――という訳で、と買って出た訳でもないのだろうが、まぁ出来ない事はないからと人の良い呉がその役目を仰せ付かる事になったそうだ。 有体に云うと押し付けられた、の方が正しいのだろうが。 「町に溢れてる字とは似てるけど、違うのね」 「元々は中国の漢字が日本に渡っていったらしいのだけど、あちらで憶えやすいように、又書きやすいように簡単な形に変えられていったそうだよ」 銀鈴もこっちの方が覚えやすいかもしれないね、と冗談めかして云った呉に、真剣な顔で同意してしまう。 北京支部に身を置くようになってから、もう片手では済まないくらい時が過ぎているというのに、未だに銀鈴は漢字がさっぱりである。 話せるし、聞いて理解は出来るが、殆ど書けないし、読めない。 はっきり云って、ただの模様か記号にしか見えないのだ。 尤も普段の生活の中で報告書等支部内の書類や、書き物、表示等は80%が英語だし、中国語で書いてあっても大抵その下に小さく英語で訳がついているので、困った事は無い。 困りはしないから憶えられないのだろうが。 「文字ってそんなに簡単に変えられる物なの?」 「そんなに短い期間でぱっと変わった訳ではないだろうけど…他にも例が無いわけじゃないよ。古代ギリシャ語から発展した、現代にも用いられてる言語が幾つあると思う?」 そんな話が聞きたい訳じゃないの、といって手を振って講釈を遮り、銀鈴は自分が覚えている限りの中国文字と、呉の手元で展開する文字とを比較して、どの文字がどの文字になったのか色々と推理を始めた。 何となくしょげてしまった呉を視界の端に収め、悪気は無かったのだと云おうかとも思ったが――考えて止める。 これを良い機会だと思って、少しは簡潔に、素人にも解り易く話を進める話術を身に付けてくれれば良いと思いながら。 「あ、もしかしてこれ…『从』でしょう?違う?」 『人』という字を指差しながらぱっと顔を上げると、呉がどれどれ?と覗き込みに来て、うん、と頷いた。 「ああ、そうだよ。意味も同じなんだ」 「形も殆ど同じだわ、だったら変えなくても良かったのに…二つ書くよりも一つの方が楽だから、かしら」 「成る程、ユニークな発想だね。そういう考え方もあるのか…思いもよらなかった」 「…先生、私の事馬鹿にしてません?」 思わず目つきと声音とが剣呑さを帯びるのを止められずに銀鈴がそう云うと、彼は取り繕うようにいやいや、と云って慌ててゴホンと咳払いをする。 「えーと、そう!楽だから、とかそういう訳じゃ、ないと思うけどね」 「じゃあ、何?」 「……そうだね――これは国民性の問題じゃないかと思うんだ」 銀鈴は呉に手招きで呼び寄せられるままに彼の隣に腰を下ろす、と、適当にその辺にあった紙がひっくり返されてもにもにと何が線が描かれていった。 「漢字というのは元々自然界に存在するものの形を簡潔に、記号として扱う為に現れた文字なんだ。例えば…『山』という字なら…」 呉は余り巧く無い手付きで、頂きが三つの山を描いて見せてくれる。 はっきり云って、絵が下手だ。 思いきって『これなぁに?』と尋ねるまで、理解出来なかった程に。 別に先刻の仇を取った訳では、無い。 「これが簡略化されて、この――字になる訳だよ」 『川』ならこう。『木』はこう。じゃあ、『林』は。『森』は、と呉はどんどん例を挙げていく。 「んもう、先生。話がずれてるわっ、肝心の『人』の話は?」 銀鈴が不満の声を上げるまで、彼の例題は延々と出続けた。 止めなければ、ゆうに後三時間は続いただろう。 熱中し始めると周りの事とか、事の始まりとかをあっさり忘れてしまうのも悪い癖で。 これだ。 これが困ると云うのに。 「ああ、ごめんごめん。でもヒントは出てるんだよ、『木』とか『林』のところで」 強ち今回は的外れでもないんだよ?と笑った所を見ると、銀鈴が指摘したい事は解っているらしい。 解っているのなら、必要な時以外は止めれば良いものを。 「え?」 「『人』というのは…」 何やらもにょもにょとペンが動き、かなり下手クソなやじろべえみたいなものが二つ、紙の上に描き落とされる。 何これ、と再び聞きたいのをぐっと堪えて銀鈴はただ呉の顔を見やった。 「こんな風に、二人の人間が背中合わせになって支え合う、それが『人間』である証明なんだ、人とはそうして生きていかなくてはいけないよ、という訓示めいた事を表した文字だそうなんだ」 人のつもりだったのか。 突っ込みは銀鈴の喉の奥でせき止められ、再びごくんと飲み下される。 「……支え合う……『人間』である証明?」 「そう。そして中国漢字との比較だけど…日本漢字の方が『人』が一つ少ないだろう?」 うん、と見たままに頷くと、呉はにっこりと笑って『ここからは持論だけどね』と嘯いた。 「中国は今も昔も人口が多く、自然と『自分』に関わる人間というのは多くなる。ましてやこの国は大きな大陸の一部で、昔から比較的外部の人間には寛容な国だったんだよ、ここは」 「…だから?」 別に回りくどいとかそういう事が云いたかった訳ではないのだが、何故かやや焦ったような顔でうん、と頷いて呉が続けた。 「だから、支え合うのもわざわざ二人っきりでやらなくても、沢山の人と支え合えば良いじゃないか。そうすれば一人辺りの負担は少なくなるんだ、という…互助会的な考え方だね」 くどいようだけどあくまで持論だよ、と付け足すのも忘れない。 そういう律儀なところが銀鈴はたまらなく好きだったりするのだが。 「じゃあ…日本は島国で国土も狭いし人口も少ないから、だから二人きりで支え合うの?」 「まあ、有体に云えばそうなるけれど…それだけじゃなくてね」 暫く何かを考えていたが、やがて彼は少し憂いを帯びた顔を上げる。 「銀鈴、ここには沢山の人がいるだろう?」 「?ええ」 「でも私は『過去』のことも凡て話して、自分を全部曝け出して、自分のことを知って欲しい。そう思う相手は銀鈴しかいないよ」 「……わ、私だって…だって…誰にも云えない…もの…」 うん、とまた呉は首肯いた。 「私達だってどんなに人が居ても、凡てを曝け出し合えるのは二人きり。つまり、数の問題ではないんじゃないかと思うんだ」 良いかい?と講義のような口調になって彼はまた続ける。 中々調子が乗ってきたようだった。 『先生』と称されるに相応しいと、銀鈴は眩しいものを見つめるような瞳で彼を見る。 「…日本という国は小さな国で、それこそ銀鈴が云った通り人口自体が少ないのも原因だろう。けれど、ある意味『唯一探し』をしているようにも、私には見えるんだよ」 「…『唯一探し』?」 反復すれば笑みが返されて、また、話が続けられる。 「彼の国は島国だからこそ、他方からの脅威に常に晒されていて、背中を向ければいつ何処から切り付けられるか解らない。そんな感情が何処かにある事は確かだろう」 だから、己の背中を守る為に、もう一人。 「嫌だ、それじゃ体の良い盾じゃない!そんなの!」 生きる為に誰かを犠牲にしなくてはならないなんて、そんなのは絶対に嫌だ。 冗談じゃないわ、と頬を膨らませると、宥めるように頭が撫でられ、ゆるりと頭を振った彼を見上げる。 「そうはならないよ、だって相手だって自分に背を向けてる訳なんだから」 「――あ…」 「お互いの背中を、お互いで守るんだ。素晴らしい世界だと思わないかい?」 だからこそ、二人きりでなくては駄目なんだと呉は続ける。 す、と音も無く立ち上がり、窓際に立って、見えない何かを探すように虚空を見上げて 「たった一人、自分の信じられる、自分の凡てを知らしめ、預けられる人を探して、その人と背中合わせに立ち、互いの背中を守る。それが日本人にとっては『人間になる』という事なんだろうね」 まるで戦友のような。 運命共同体のような。 貴方と一緒に生きているという事を強く感じられる。 命さえ委ね。命を委ねられ。 多分死ぬ時は一緒に。 それまで離れる事はないのだと。 何があっても。 死が、二人を別つまで。 充足感。 愛、が。 其処に、ある。 「――でも、やっぱり嫌よ」 確かに素敵な考え方ではあるけれど、それでもやっぱり、と銀鈴は不満そうに再度、告げた。 「何が、だい?」 「どうして敢えて、背中合わせで無くちゃいけないの?そんなの後ろ向きで嫌よ」 嫌って云っても…と口篭もる呉の手からシャーペンを取り上げて、今度は銀鈴が図を描き始める。 「こう、よ。これでどう?先生」 銀鈴だって絵心に長けている訳ではないが、呉の描いた物に比べれば格段にマシだ。 と自負しているのだが。 並べてみれば何だかさして変わらないような気もしてきたりして。 良いのよ、違いをはっきりさせる為には似たような図形を提示しないとね、と自己弁護を図ると再度、自分の描いた図を示す。 画力は兎も角として――二者の決定的な違いは『手』と思しき線が向いている向きだった。 呉の描いたものは相手の背中を庇うように広げられているのに対し、銀鈴の描いたものは、まるで互いを抱擁するかのように相手に回されている。 「これ…は?」 「これが私の『人』。支え合うなら、お互いの事を抱き締める見たく向かい合うのが筋ってものだわ」 そうすれば、お互いの後方にも気を付けてあげる事が出来るでしょう?とやや得意げに胸を張りつつ。 「背中を向け合っていたんじゃ…何も見えないじゃない」 それでも零れた声は態度とは裏腹に、少し湿っているのが自分でも解る。 「背中を向け合ってたんじゃ、相手がどんな顔をしてるのか解らないわ。 辛いのか、嬉しいのか、私はちゃんと相手の支えになれているのかどうか、私は相手に必要とされているのかどうか。そんな色んな事が全然見えない。 そんなんじゃ『人』にはなれないわよ」 ――いつまで経っても、それでは孤独。 銀鈴は湿った己の声を振り払うように、プルン、と頭を一つ振って呉を見上げる。呉は少し心配そうに、けれどもいつもの穏やかな笑みを浮かべて彼女を見つめていた。 「ね、先生」 不意に悪戯心が湧いて――それだけでも無いのだけれど――銀鈴はえい、と背伸びをすると 「ぎっ…」 呉に真正面から抱き着いてやれば瞬時にぎしっ!と音がしそうな程、呉の身体が硬直した。 白衣に包まれた腕が自分を、抱き締め返そうか押し退けようかと困りながらうろうろしているのが解る。 「もし先生が『人』って字を綴るとしたら…どんな風に綴るのかな…」 そんな呉の羞恥を暫く堪能していたが、やがて銀鈴はほとり、とそんな呟きを落とした。 うわ言のように零れ出た言の葉に、呉がちょっと訝しんだのが気配で掴めた。 「…私の知らない他の誰かに、いつか背中を…凡てを預ける日が来るのかしらね…」 響いた声は、自分でさえ未だ嘗て聞いた事の無いような大人びた響きを含んでいる。 (…でも、違うわね。呉先生はきっと誰にも頼らない。強くて……悲しい人だから) 銀鈴には解る。 呉の心に残る大きな傷は、銀鈴とも共有するものだから。 だから彼は他人に深く関わる事に踏み切れないに違いない。 心に傷を負ったままで、心に秘密を持ったままでは、生半には深く係わり合いは持てない。 先刻彼自身も自分で云っていた。『誰に対しても凡てを曝け出す事が出来ない』と。 ただ一人、銀鈴を除いては。 けれど銀鈴は同時に知っているのだ。 呉は決して自分に対して『家族』以上の特別な感情を抱いていない事を。 そしてまた、銀鈴を妹として思っているが為、唯一支え合えるかも知れないのに『妹』の手前、気を張って一人で立っていようとする。一人で平気な振りをしようとする。 そんな見栄っ張りな面もある、という事を。 だけど (だけど…それじゃあ悲しすぎるじゃない…) たった独りでは、息が切れる。淋しくて、苦しくなる。 立っているのにも疲れて、そしていつか倒れ伏してしまうのだろうか。 そんな彼の姿は、見たくない。 (今だけ、今だけでも良いから…) 「ぎ、銀鈴…あの…そろそろ離してもらえないかなァ…?」 「……――だーめっ!」 だって、好きだから。 だからこそ。 強気な優しい弱い心を黙って真正面から力いっぱい、抱き締めて。 無理矢理にでも、支えてしまう。 無理矢理にでも、『人』になる。 正面から見つめ合って。 大丈夫、貴方の背中後方は私が見てるから。 私は貴方の支えになれている?辛い事は無い? ねぇ、一緒に『人間』になりましょう? 「……先生」 「…何だい?」 抱き締められている事にも慣れたのか、呉は平生と変わらぬ声でそう応じて、銀鈴の瞳を覗き込む。 「向かい合って、顔を見詰め合うとね。相手の心に触れてるような気がするのよ。だから、背中合わせよりも孤独じゃないわ。私、そんな気がする」 まだ少し大人びた表情を浮かべつつ、銀鈴がそう告げると 「――そう…かも知れないな」 呉も、口元に甘やかな笑みを刷いて応じてくれた。 「そうだね…銀鈴の云う通り、何だか向かいあった方が『人間』らしいような気がしてきたよ、私も」 相手の鼓動を感じ、吐息を感じ、生を感じるという事。 「…――でしょう?」 んぱっ!と勢い良く顔を上げて、惜しみなく呉から離れると、銀鈴はにこっと明るく笑った。 「頭で考える事だけが正しいんじゃないんだから。やっぱり何事も心が感じるままに、ね?」 まぁ『人』という文字が『人が支え合っている』という大本の部分で間違っていない事は、確かですけどね。そう付け加えて 「……いつか…」 不意に銀鈴は表情を真面目なものに切り換えて、じ、と呉を見つめる。 「いつか、学究兄様が誰か、唯一の方を見つけられたら…必ず私に教えてね」 「…ファル…メール…」 口から互いに出た呼び名は、禁忌の名。けれど、二人だけの秘密な、特別な名。 互いに見詰め合って、微笑みあって。 「……勿論だよ」 うん、と首肯いて快諾に礼を云う形で『有難う』と云って、銀鈴はちょっと肩を竦めて見せた。 「それまでは、私が支えていてあげるから、ね?」 「――じゃあ、私も銀鈴に『たった一人の誰か』が現れるまで、銀鈴を支えていてあげるよ」 冗談めかして広げられた、呉の腕。 「!」 そこに迷わず飛び込んだ。 「……大丈夫、いつか…銀鈴にも現れるよ…。たった一人の、貴方だけの誰かが」 もう、現れてるわ。 そう小さく呟いた声ははっきりとは何処にも伝わらず、僅かに聴覚を震わせた呉が「え?」と訊ねたが 「ううん――何でも無いの」 柔らかく微笑んだまま、決して同じ言葉を口にする事は無かった。 (――本当は、教えてなんて要らないけどね) 教えてもらったら、何だか自分が小姑じみてきそうで、何だか怖いような気がするのだが。 銀鈴は内心苦笑していた。 (本当は、私がそうなりたいのよ。…一生気付かないでしょうけど、ね) 誰よりも大切に想っているわ。 貴方と、為りたいのよ。 銀鈴は呉に抱きとめられたまま、クス、と小さく笑って。 胸中でそっと、優しく囁きかけた。 (ねぇ…) ――ねぇ、一緒に人間になりましょう? ■おわり■ 加筆修正有りまくりの再録。幻孔バージョンもあります。 『人』がテーマになっていますが、文字の成り立ちなんてものはそれこそ見る人それぞれの解釈があって、何が正しいのかなんてさっぱり解りません。 『正しさ』なんてものは見る人の心の中にあれば、それで良いと思うです。 2003/02/01 re-up |
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