Glory |
コツコツと冷たい足音が、冷たい廊下にこだましていた。足音の主たる孔明をそのまま表すかのように、何処までも冷え切った、排他的な音。 疲れているのだろうか、それはいつもの精彩を欠いていたが、樊瑞の耳には突き刺さるように響いた。 「……」 このまま廊下を歩いていけばじきに、曲がってくる孔明と正面から出くわす事になる。 それはどちらかと云えばちょっと厄介で、精神衛生上余り歓迎したい事ではないのだが。 だがそこから取って返すのも気が悪い。樊瑞は、持ち前の人の良さからそう結論付けると、相手に自分の存在を知らしめるように、静かに進めていた歩みを急に音高にした。 自分と鉢合わせる事は相手にとっても歓迎しかねる事態だろう、と思って。 直後、孔明が角を曲がってきて、二人は互いの視線をかちりと合わせる。 冷たく切り込むような孔明の雰囲気に、何故か『敗けたくない』と強く願い、樊瑞は彼を睨み付けるように見つめながら、己も一歩ずつ歩んでいった。 互いに近付いて行く。息の詰まるような邂逅。反発するように見つめ返してきた孔明が、互いの距離が後2メートル程度、という所になって不意に歩みを止め、目を伏せながら廊下の端に寄った。 わざとらしく強調される、上下関係。 誰が見てもこの狡猾な策士と十傑集の筆頭である樊瑞とは、対等な関係だと解る。席次レヴェルで、では無く、実際問題として。それを殊更大仰に区切りをつけて見せるのは。 自分をとことん莫迦にしているか、何か疚しい事を心中に秘めているかの二つに一つだろう。 溜息をついて(鬱陶しいとは思ったが、それをわざわざ取り立てて相手にする程、自分は暇ではない)、樊瑞はそれを受け入れようと努力した。 すれ違うほんの一瞬。再び真っ向から二人の視線がかち合う。 「…ごきげんよう、混世魔王殿」 目を細めた空々しい笑みに、樊瑞は顔が顰められるのを止められなかった。本来ならば、この男とは顔も合わせたくなかった。前(さき)の作戦の結末に納得のいかぬ樊瑞は、孔明に云いたい事や問い質したい事がが山ほどあったのだ。ただ、彼がそれらを『ビッグファイア様の御意志』と頑なに押し通す故、已む無く引き下がっただけに過ぎない。 それを、何事も無かったかのようにのうのうと、この男は。 時が氷点に達したかのように、冷たさを持って硬直する。二人は凍り付いたように見つめ合って、睨み合って。 先に逸らしたのは何方だったのか。そのまま何事も無いように、孔明が軽く一礼して通り過ぎようする。その時。 「っ…!」 何かが『弾け』て、樊瑞はぐ、と強い力で孔明の腕を掴んで引き戻す。 「樊瑞殿、一体…」 困惑したような声を上げる孔明を無視して、瞬きの音さえ聞こえそうな程近くに引き寄せる。 孔明は已む無しと思ったのか、一度逸らせた眼差しを再び樊瑞へと向けて来た。だが、抗議する訳でもない薄い身体は、ひたすら従順に軽々と腕の中に捕らえる事が出来た。 樊瑞は胸に苦い物でも落としたかのように深く溜息をついて、直向きに孔明を見つめる。 そうしていればまるで、彼の凡てが見透かせるとでも云うように。 「…満足か?お主は」 考える間もなく、言葉が口をついて出た。他にも云いたい事はあった筈なのに、何故か何もかも忘れて。 孔明の本質に、確信に迫るその科白しか、出なかった。 「…え…?」 「大きな犠牲を払って…凡てを秘密裏に動かし、一人で何もかも抱えて」 ビッグファイアが孔明に依存している、それを妬んでいる訳ではない。かの方が孔明にのみ意志を伝えるのは、何か深い考えがあっての事だとちゃんと認識している。卓越した思考の持ち主、それが自分の仕える主だ。 ただ、樊瑞には孔明が理解出来ないのだ。 「あの方の為に、何を失っても良い、と云うのか?」 幻の居城を取り戻す為に、払われた多大な犠牲。それを、何とも思っていないのだろうか。 「お主はこうなると知っていて…何もかも計算ずくで幻夜を…!!」 エマニュエル・フォン・フォーグラ―。孔明の手の内で踊らされ、手駒としてしか一生を終える事が出来なかった、あの青年。 彼に対して孔明は、何の憐憫の情も抱かなかったのだろうか。 こういう自分が、世界征服を策謀する秘密結社に『相応しくない』事は解っている。己はこんなにも優しいのだとひけらかすつもりも、無い。 ただ、孔明の行為は余りにも人間として、道を外れていないだろうか。幻夜を『あんな』にする必然性など、何処にも無かった筈なのに。 色々な感情を錯綜させながらふと孔明を見ると、彼は顔色一つ変えず、表情を固く凍りつかせたまま、樊瑞の方を見ていた。それにぶつかって、思わずそこで言葉を途切れさせてしまう。 まるで樊瑞が、理にかなっていない事で言い掛かりをつけているようにも、見えるだろう。 その一瞬の逡巡の内に孔明が、引き寄せる力に上手く乗じたのかするりと拘束から逃れると、こちらに向けて柔らかげに笑んできた。 眼差しだけはひどくきつかったけれども。 「混世魔王殿」 慇懃な声だった。無論、下には『無礼』とつく。 「我々はビッグファイア様の下に生きる輩。あの方に凡てを捧げるのが我らの正しき在り方。違いますか?」 ゆったりとした彼の笑い方は、樊瑞にはどうしても胡散臭く、そして嘘っぽく見える。そんな笑みに混ぜられた言葉は、間違ってはいないが、正しくも無いと感じられた。そのままに素直に眉を顰めると、孔明の笑いが濃くなる。 「幻夜は御方に殉じて逝きました。自身を御方に捧げて、掛け替えの無い、かの幻の居城を取り戻す『夢』を『現実』を、我らに託して」 握り込まれていた白羽扇がトン、と胸に突きつけられた。それは己の感情に、そして思惑に干渉するな、とでも云うような。一切を拒絶するような仕草。 孤独の王者に見込まれた、孤独を余儀なくされる恭順の使徒。 「その道を選んだのは、彼等自身です」 否だ。咄嗟にそう思ったが、孔明の微笑が何処か寂しげに見えて、樊瑞は追及も返答も出来ずにいた。 凡てを捧げる、という孔明の言葉は正しいのかもしれない。そしてまた、己で選んで、望んで幻夜はあの結果に納まったかもしれない。 「……」 ならばその、僅かに陰りを見せる瞳は一体何だと云うのだろう。 その言葉さえ孔明自身のものではなく、ただ御方の意志を伝えているだけだとしたら。 それは間違いではないだろうか? 滅私の精神で尽くすのと、自分を無くしてしまう事とは違う。他人の意志を自分の意志と摩り替えてはいけない。それは人間の尊厳に関わる行為だから。 凡て捧げるのが正しい在り方だとしても、失ってはいけないものがあるのに。 「満足ですよ、私は」 以前ならきっと、心を乗せていない、空々しい言葉だと笑っただろう。長年かけて育成した手駒を死なせ、有能な十傑集を二人も失った。それ程の犠牲を出しておきながら得たのは、たった一つの城の在処。それは確かに掛け替えの無いものかもしれないが、今回の犠牲と天秤に掛けられるものではない。 その結果が満足な訳はないだろう、と。 だが、もしも孔明が意思さえ忘れてしまっているのなら、それは彼にとっては唯一無二の真実となり得るのだ。そう樊瑞は思い直した。 孔明が色の無い純黒の瞳でこちらを窺っているのが解ったが、縺れた思考も顰めたままの眉も、簡単に元には戻りはしなかった。 「貴公も…でしょう?」 怪訝そうに沈黙を砕きながら、孔明が問うて来る。その言葉に、はっとさせられた。 だから、だろうか。自分が孔明を好かないのは。 自分が一歩間違えば、今の孔明と同じ様な盲目の殉教者になり得る事を知っている。 だから、今此処に居る彼を、己の成れの果てを見るようで厭うのか。 まだ自分は『己の心』を無くしてはいないが、いつか孔明と同じ様に抜け殻になって、空虚に笑う日が来るのかもしれない。 今は、彼のようにはなれぬと漠然と思うけれども。いつかそんな事も忘れて。 ビッグファイア以外の者凡てを犠牲にする覚悟を当たり前のようにして、大切な者さえ己の負担になるのなら切り捨てて。 彼の方の望みだけが自分の生きる術となるような。彼の方の意志のみに己の凡てを捧げる、そんな日が。 「……」 黙っていると、孔明が答えを求めているかのように眼差しを強くした。真正面から受け止めると、何故か瞳の奥がつん、と痛くなる。 「…うむ」 何だか泣きそうになっている自分を感じながら、樊瑞は微笑して頷いた。 す…と樊瑞から離れ、一歩足を進めた先で孔明が振り返り、綺麗に笑いかけてくる。 その瞬間だけは、自然な、作ったものではなく彼自身の笑みで。 「樊瑞殿。私達は存外、仲良くなれるかもしれませんね」 意外な科白に樊瑞は苦笑した。唐突に何を云い出すのだろうか、この男は。そんな事は真っ平ごめんだ、と自分が思っているくせに。 尤も樊瑞自身も、自分達はひょっとしたら、誰よりも解り合えるのではないだろうか、という思いを抱いてはいたが。 あのビッグファイアが此処まで絶対の信頼を置くのだ。ひょっとしたら意外な『人物』なのかもしれない、という希望のような推測までしていた。 だが 「…御免だな」 くるり、と孔明に背を向けて樊瑞は肩を竦める。 「少なくとも儂は、お主のようになりふり構わず、得るものも多いが失うものも多いような、そんな真似は出来ぬからな」 いつかそんな日が来るとしても、少なくとも今は。 ヒトである事を止めれば、生きる意味が無いのだ、自分は。 失いたくないものがあるという事は、自分を弱くしていくのかもしれないが、けれどそれらを失ってまで強く在りたいとは思わない。情に溺れる、その甘さが人間が人間たる、ひいては樊瑞を『樊瑞』たらしめる所以。 そんな感情を切り捨てなくては、というのなら、そんな力は必要無い。失いたくないものを護る為に、自分は強く在りたいと願うのだから。 「おやおや…」 振られましたねぇ、と冗談めかした科白が孔明から零れ落ちた。全然残念そうじゃない声だった。 「…だが」 ちらり、と顔を横に向けて肩越しに彼を見る。その先で孔明は苦笑を滲ませた瞳を樊瑞に向けていた。 自然と、言葉が切れ切れになる。 傍から見ればまるで、何か云い訳をしているような、そんな雰囲気に感じられるだろう。 孔明は余裕のある笑みを浮かべたまま、その細切れの科白を拾っているようだった。 「その心意気は――見事、としか云い様が無いだろう」 ふ、と一瞬孔明の瞳が瞠られる。色々シュミレーションしてみた結果、一番出そうに無い答えを聞いた時のような、そんな顔。 「……」 本当は誉めてはいけない事なのだろうけれども、何故か自然に言葉が零れた。自分には到底出来ない事をしている、その行為の意味ではなく、それ自身に賞賛を送るのだ。 尤も、真意を汲み取ってもらえなければ、何だか激しく間抜けな科白なのだが。 ほんの一瞬、時が空白で埋められ、すぐに孔明のクスクス、という淑やかな笑いに取って代わる。その時の彼がどんな顔をしているかは、瞳を逸らした樊瑞には見えなかった。 『云うんじゃなかった』という気拙さが、樊瑞の気を重くする。どうせ呆れているか、莫迦にしたような冷たい目で見ているに違いない。喜んでいるとは思えないから。 ひんやりとした沈黙が二人の間に落ちて。 「…お褒めに与り、光栄ですよ」 意外に揶揄する響きではなくそういうのと同時に、かつ、と靴音が一際高く打ち鳴らされて、孔明が去っていく気配がした。 はっとして顔を上げると、彼は一部の隙も無い完璧な立ち姿で、樊瑞が来た方へと去って行くところだった。前だけを見つめて。後ろは振り返らず。 樊瑞は、己の行き先を見る想いで振り返り、それを見送ると自分もまた、真っ直ぐに前を向いて歩き始めた。 背中で感じる距離ほど、自分達は『違って』も『離れて』もいないのだ、と思いながら。 ◇◆◇ 視界が雨で煙っている。私室で窓の外を何とはなしに見遣りながら、樊瑞は先刻の孔明との遣り取りを思い出していた。 孔明は、ある意味仕合せな男なのかもしれない。 何の猜疑心も抱かず『御方』に仕えていられる。 自分は? 一度生じた疑問を持ったまま、今までどおりビッグファイアに忠誠を誓う事が出来るのだろうか。 「…尤もそれらも凡て…ボスがお目覚めになってから、か…」 一度目覚めたものの、またすぐに眠りに就いたビッグファイアが、次にいつ目覚めるのかは解らない。そうだ、それまで考える時間はたっぷりとある。 あの城を陥落し、真実自分達の手に取り戻すその時まで。 「我らの…ビッグファイアの為に…」 何度と無く唱えた、忠誠を表す言葉。悦に入りながら唱和した事もあったそれが、何故か今は砂を咬むような感触しか呼び起こしてくれない。 「……孔明…」 くしゃり、と髪を掻き揚げ、硝子に頬を寄せる。 冷たい感触は心地よく、樊瑞は僅かに目を伏せながら、想いを馳せた。 いずれ、自分と、彼と、そしてこの世界に訪れる、運命に――。 ■おわり■ 1999年8月発行の「Golgotha」より加筆修正再録。解り難いかも知れませんが静止作戦後です。基本的に漫画版GRの設定を敷いています。いえ、作戦の最終目的という部分で。 樊瑞と孔明に関しては色んな意味で夢を抱き過ぎだと自覚はしているのですが。二人の間が優しい勘違いや意地悪な気遣いで、距離的にではなく空白が埋められていって。互いを解り合った上で敵対して欲しいと何と無くいつも思っています。 2003/08/03 re-up |
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