天使の背骨














上がる息を忌々しげに咀嚼しながら、呉はふうと額の汗を拭った。泥や血で汚れた手に湿り気が戻り、余計に顔を汚してしまう結果になるのは解っていたが、それでもそういう日常的な動作をする事で気持ちは多少なりとも落ち着く。
慣れない荒事。
自分を押し包む緊迫した空気。
呉は所在無げにだらりと右腕を下ろすと、左手でそっとその上を擦る。長時間鉄扇子を構えっぱなしでいる事と、緩む事無い緊張とで、ひどく腕が疲れてしまっていた。
自分自身がこうして第一線にいるなんて、まるで悪い夢でも見ているようだと、今尚思う。
普段は幕の内――大抵は北京支部か、そうでなければ前線の本部――にいて、安全を約束されている自分。
それがこうして戦場を駆け巡る事を余儀なくされているのは、誰をかあらんBF団の『お陰』だ。
巧妙に隠し果せたつもりの本部の位置は見事に見破られ、彼等はそこに強襲を掛けて来た。
考えたくは無いがひょっとして内部の人間を疑わなくてはならないのか――そこに思い至った呉は、トンと背中に触れた何者かの感触にびくり!と背を震わせた。
慌てて振り返ると、そこには
「戴宗…」
同じ様にぎょっとした顔の戴宗がいた。
ああ、そうだ。
自分達は一緒に撤退してきたのだ、それを唐突に思い出す。
一緒に、と云うよりは戴宗が呉を護衛してきてくれた、という方が正しいのだが。
お互い背中併せになって、次から次へと湧いてくる有象無象どもを叩き伏せながら、漸く人影の無い地点まで逃げ延びてきたのだ。
「すまない」
呉は小さく会釈して謝る。
驚いてしまった事と、驚かせてしまった事に対して。
「良いって事よ。こんな時にまで律儀だなぁ、先生」
戴宗はそう笑ったがそれでもまだ、僅かに触れ合っている肩からは彼の緊張を感じる。
幾ら九大天王とは云え、戴宗とてまだ若輩。一対多数の戦いを強いられる(この際呉は頭数には入れない。何しろ普段は全くのインドア派なのだから)のはそれなりに消耗するのだろう。実力が届かなくても、数を揃えられたのではさすがに苦しそうだ。
呉は急に自分の持っている鉄扇子が滑稽な物に見えて、それを一旦懐に仕舞い込む。
「…もう…潜んでいないかな」
また背中併せの体勢に戻り、辺りをぐるりと見渡しながら希望を込めて呟くと、背後で戴宗も肩をひょいと竦めた。
「さあなぁ、どっちにしても援軍が来るまで気は抜かねぇ方が良いな」
そう云いながらも戴宗も、徐々に強張りを解いていっている。
張緩の境をくっきり付けられない人間は消耗も激しく、また生き残る率も逆に少ない。
戦場においての鉄則を戴宗とて知っているのだろう。
呉は再び辺りを見回して、少し離れた場所に見晴らしの良い木陰を発見し、彼に声を掛ける。
「あそこまで移動しよう、戴宗。ここでは援軍にも見つけてもらい難い」
「違いねぇ」
二人は互いの背後に気を配りながら、さくりさくりと土を踏みしめ歩いた。
一歩ごとに僅かに掘り返される土の匂い。それに混じって蛋白質の焦げる匂いや無機物の燃える匂いが鼻腔に侵入してくる。
物慣れぬ匂い。
匂いだけではない。遠くの方からは怒号、爆発音、凡そ平穏な生活をしていれば全く縁の無いような物音が漂ってくる。
見渡せば、辺り一面は大部分が焼け野原と化していた。BF団のロボット兵器が齎す荒廃は凄まじい。
ああ、戦場にいるのだなと呉は改めて実感した。
机上の論を叩いているだけでは見えない、空気。
たまにはこういうのも悪くは無い、寧ろ彼等の生命を危機に晒す身として、自分達が出す策によって多くのエキスパート達をこういった所に送り込んでいるのだ、という事を思い知るには良い。
尤もそれらも、生きて戻れたら、の話だけれども。
戴宗と呉は奇跡的に焼け残っていた大木の幹に凭れ掛かるようにドサリ、と背中併せのまま腰を下ろした。
「ふぅっ…漸く一息、ってとこだな」
戴宗が苦々しく笑いながら座ったままうん、と伸びをする。
呉はそれに同意しようと彼の方を見て――その背に見蕩れた。
普段は腹当て等に覆われて見えやしないのに、今日はそんな物を纏う暇すら無かったのだろう、戴宗の、背中。
汗や血(返り血ではなく、戴宗自身の傷から漏れている)に濡れた服が透けて、彼の背骨が浮いて見える。
痩せた、背中。細い項。余計な脂肪を付ける事を許されない生業。
けれど決して脆弱には見えない。
きっと殺ぎ落とした肉、脂の分だけの物を背負っているからだろう。
それそのものが一つの生き物のように、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。
横から見るとゆったりとした弧を描いているだろう、それは何処と無く魚の標本を思わせた。
「それにしても先生、随分と落ち付いてるじゃねぇか。鉄扇子の扱いも中々のもんだしな」
背を向けたまま戴宗が笑う。
その言葉に合わせてまた、ひくりと骨が動いた。
「…これでも一応、エキスパートの端くれだからね」
「いやいや、端くれなんてとんでもねぇ。正直、最初は先生と二人っきりなんてどうなる事かと思ったが、どうしてなかなか」
『背骨』が見える、と言うよりは、一つ一つが節として浮き上がって見える。
きっと服の下では三日月型の影を落としているだろうそれは、楽器のように上から下に向けて撫で下ろすように触れれば、ころころと音を奏でそうだ。
「普段澄ました顔して本部に鎮座してるのが勿体ねぇくらいだぜ、本気で」
ぐきり、と鳴らされた首の付け根に近いところでは、節と節の間隔が詰まっている。
「駄目だよ、私なんかが出張ったら却って失礼だ。『本職』じゃないんだから」
背から目を離せぬままに云うと、戴宗は『いやいや』と云いながら今度は肩を回し始めた。
関節内の圧が変わって、ぺきぱきと小気味の良い音が立つ。
思わずそんなに鳴らして大丈夫なのだろうか、という心配さえしてしまう程の鳴りようだった。
「どうだ、これからは一緒に『出る』ってのは。先生なら皆大歓迎だぜ、何せこっちの部隊にゃ『華』が少ねぇからなぁ」
ひひひ、と揶揄いを交えた笑い声が妙に子供じみて聞こえて、それに誘発されるように幼い頃、彼のこの背に何度と無く負ぶわれた事があるのを思い出した。
呉が、悪餓鬼にいじめられて泣いていた時。転んでしまって歩くのが辛くなった時。遊び疲れて眠くなってしまった時。
戴宗の方が年下なのに、まるで兄のように呉をあやしながら、陽の下、夕暮れの中、星の下を歩いてくれた。
あの頃も今も同じ、無限大に広く見える、この頼もしい背中。
肉の下に潜んでいるのはただのカルシウムの塊ではなく、彼を支える鋼。
その鋼は絶対的な彼自身の規範に裏打ちされた強さを持っているのだろう。
溢れる躍動感がそれを証明している。
薄い肉体を内側から突き破って羽ばたく時を今か今かと待っているような、そんな印象さえ憶えた。
ああ、まるで我々の――否全世界の恒久的平和を司る、守護天使のようだ。
「……」
不意に、強烈に触れてみたくなって――呉は吸い寄せられるように手を伸ばす。
(触れたら熱いような気がする)
そんな神々しさや、また畏怖にも似た感情を抱きながら、つ…と戴宗の背骨を丁寧に撫で下ろした。

「っ!!」
戴宗が又もやぎょっとした顔で振り返る。
「なっ、何すんだっ!先生っ!」
「え?」
寧ろ無意識下の行動に近かった呉は、一体彼が何に驚いているのかを理解出来ずちょこんと小首を傾げ――戴宗が『寒気がする』と云いながら両腕を擦る段になって、漸く気付いた。
「あ…ああ!済まない」
慌ててぱたぱたと手を振りながら謝るが、聞いてもらっているのかいないのか、戴宗はむう、と膨れたまま呉を睨むように見つめている。
「ったく…人を擽って遊ぶような真似するとは本当に余裕だな」
「ゴメンってば」
いつもより砕けた――まるで幼い頃に戻ったかのような口調で云えば、視線が外されぽつり、と呟きが落とされた。
「汗とか血で、汚れるだろうが」
自嘲するような声。
呉がこの軍場(いくさば)で感じているような居た堪れなさに似た『疎外感』を感じているのかも知れない。そんな、額面通りに受け取れない、深い意味合いを含んでいそうな言葉に呉は頭を振る。
汚れる訳が無い。
「そんな事無いよ、ただ」
だって、その背中はとても――
「綺麗だと――」
――私もいつか、こうなれるのかな。
この背に背負うものが自分自身のものだけでなく。
ただ守られたり負ぶわれたりするだけじゃなくて。
私も私なりに他の何かを背負ったり。誰かを守ったり。
彼のようにいつか『天使の背骨』を持てるようになるのかな。
…だったら、良いな――。
「――思ってね」
ふふ、と微笑って云うと、また戴宗が振り返る。けれどその顔は先程と違って驚きで彩られているのではなく。
「……」
端的に云い表すのならば、それは『呆れ』。
「…何だい?」
ちょっと心外に思って問い返すと『いいや…』と彼は頭を振った。
「…頭の良い人が考える事は解らねぇなぁと思ってな」
解らないのはこっちの方だ、という呉は言葉を飲み込む。
あんなに素敵なものがあるのに、どうして戴宗は気付かないのだろう、と。
(ああ…もしかして『背中』だから気付かないのかな)
勿体無い、と思ってじぃっと戴宗を見つめていると、照れたように彼は
「まぁ良いや」
と笑った。
「それくらい余裕がある方が、こっちも頼り甲斐があるってモンよ」
「……・…」
「ん?どうした?」
ふわり、乗せられた言葉。
きしり、音を立てて自分の『カルシウムの塊』でしか無かった骨が、変質したような気がした。
「…いいや…」

なれたら、良いな――。

呉は微笑むと、重い腰を上げて辺りを見渡す。
相変わらず漂う焦土の香り、遠くから響く轟のような騒音。しかしその中に混じって、異音が聴覚を擽ったような気がしたのだ。
くい、と顎を上げて空を見上げれば戴宗も倣うように目線を上げる。その二人の視界に、小さくではあるが――
「ああほら、思った通りだ戴宗。グレタガルボがお出迎えに来たよ」
「ひゅー、北京支部のピカ一別嬪さんに迎えに来てもらえるたぁ、光栄だなぁ」
うん、と二人で揃ったかのように伸びをし、伝説の乙女の降臨を待つ。
まるで遠くの喧騒が嘘のような穏やかな光、風に包まれながら、呉は漣のように微かな――けれど確かに、彼と、彼等と、そしてひょっとして自分の背から――羽音を聞いたような気が、した。













■おわり■






水滸伝ではこのコンビがかなり好きです。
私的設定丸出しで古馴染み(幼馴染)な二人。仲良き事は美しき哉。


2003/04/13






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