ドルチェ・ヴィータ |
昼下がりのカフェは猥雑にならない程度の喧騒に満ちていた。 外の通りを過ぎ行く車のファ…というクラクション。 物を売り買いする人々の交渉の声。 母を捜して泣く子の声。 笑い声。 ここ、聖アー・バー・エーは平和な彩りに満ち満ちている。 呉はカフェ・オ・レの大きなマグで両手を一杯にしながらぼんやりと、聞くとはなしにそれらを聞いていた。 こうしていると、あの惨劇が嘘のように思える。 自分があの夜を乗り越え、国際警察機構を退官してから、まだたったの一ヶ月。 大怪球フォーグラーの残した傷跡はまだ、街の彼方此方にくっきりと残っているというのに。 人々の心は既に癒されている――かのように見えた。 それが悪い事だとは思うまい。 誰とて、嫌な事は忘れてしまいたいのだから。 否、本当に忘れる事は出来ないとしても。 『忘れたフリ』でもしないと辛くていられないだろうから。 だが――と、呉の脳裏にはそれらを一まとめに『罪』として糾弾した『親友』の姿が浮かぶ。 世界のあるべき正しい姿とは一体どのようなものなのだろうか。 きゅう、と知らず下口唇を噛み、カップの中を覗き込む。 そこにはどんな真理さえも溶けこんではいなかった。 と。 「失礼。こちらの席は空いているかな?」 ふと、カップの水面に映り込んだ人影が、呉にそう声を掛けた。 「――他にも空席は沢山あるように思いますが」 顔を上げる事無くそう告げると、人影はふふんと笑って了承も無しに呉の正面に座り込む。 どうせ許可を取るつもりが無いのなら、初めから黙って座れば良いものを。 この男――人影は紛う事無き中年の男だった。これが女性なら喜んで了承するのだが――のそういうやり口が余り呉は、好きではなかった。 きっとこれからも、好きになる事はないだろう。 「一日に一度、君の顔を見ながら食事をしないと食べた気がしないんだよ」 「病気ですね、カフェに来るより前に病院へどうぞ。生憎と良い医者は知りませんので、ご紹介は致しかねますが」 白々しい台詞を冷たくあしらえば、『君は意地悪だなぁ』と大して堪えた風もないように云い、男はサングラスの奥の瞳を眇めて笑う。 「何で私に対してはいつもそう冷たいんだ」 「真摯な対応をお望みでしたら、それなりの態度を示して頂けますか。――中条長官」 仮にもこれが元上司かと思うだけで嘆かわしい。 元々ふざけた人間であるという認識はあったが、呉が退官してからというものの、その度合いはますます強くなったように感じる。 尤も、中条に云わせると『呉という抑えが居なくなったから』故の反動だそうだが。 聞く耳を持ちたくもない。 「私はいつだって真面目なんだがね。――ああ、君、注文を」 中条が通り掛かったボーイを呼びとめ、オーダーをし始める。 それを機に、席を立とうとするが―― 「それと、こちらの彼にカフェ・オ・レをもう一杯。…飲むだろう?呉先生」 テーブルの上に置いた手を縫い止められ、睨みつけるが一向に意に介す様子も無い。 仕方無しに呉は、上げた腰を再び椅子に戻す。 ボーイが、テーブルの上の重なった手を、怪訝そうな顔で見ながら去っていくのが解った。 「…長官、手を離して頂けませんか?」 「君が『逃げない』って約束したら、にしようか」 ふざけた物云いに、呉の眉間に派手にしわが寄り 「っ…痛ぅ…」 テーブルの下から『ガツン!』という中々派手な音が響く、と同時に中条がぱっと手を離し、呻きながらへなへなと崩れ落ちた。 「…革靴で蹴るのは無しにしないかね、呉先生。脛は鍛え様が無いんだよ」 「天罰です」 うめく中条を無視して、呉はカフェ・オ・レの残りをぐいと呷る。 冷たくなってしまったそれは、苦味に似た残滓を伴って胃の腑に落ちた。 「冴えない顔をしている。…新しい仕事の方が捗々しくないのかね?」 「そういう訳では…」 無い、と云い切る事は少し、嘘が混じる。 ん?と真正面から覗き込まれて、呉は視線を避けるようにすい、と俯いた。 まだたったの一ヶ月。 その期間で何が出来るという訳でもない。 それは解ってはいるのだけれども。 十年近く離れていた『知識』を取り戻すには、一月という時間は余りに短すぎて。 どうしても考えずにはいられない。 もし、最初の惨劇が起こった時に、国際警察機構に『逃げ込む』事無く何らかの研究施設に所属していれば、と。 気が急いているのだ。 あれ程の犠牲を払った上に成り立つこの世界を、より良い方向へと導くのが自分のつとめ。 自分が請け負ったのは、余りに長い殉教者のリスト。 それを無駄にせぬ為にも、一日も早く。 「…無理矢理にでも引き止めれば良かった」 ぽつり、不意に中条が呟いた。 その言葉に訝しみの眼差しを向けると、組んだ指の上に頤を乗せた――何だか少し乙女チックな態勢で、彼が自分を見つめていた。 瞳は、子を見守る父親のようでもあり。 柔らかく凡てを受け止める母のようでもあった。 「突然…何を仰るんですか?」 オーダーを運んできた給仕の腕を避けるように、やや後ろに背を逸らしながら呉は尋ねる。 いとまを告げた時は割合にあっさりと受け入れられたので、まさか中条が『引き止めよう』等と考えていたとは、思いもよらなかったのだ。 「研究は何処に居たって出来る――と思う私は浅はかかね」 はみっ!と豪快にベーグルサンドを頬張りながら、けれど鳶色の眼差しは一時たりとて呉から外れる事は無い。 「君がわざわざ我々の元を退いてまで得たものがその冴えない顔付きだけだったとしたら、手放した事をつくづく後悔しなくては、と思ったんだ」 「……長官…」 素直に、『申し訳無い』と思う。 呉が北京支部で過ごした十年間の『仕事』は、後続の者に無事引き継がれたけれど。 あそこで過ごした『十年間』は誰にも引き継ぐ事は出来ない。 誰よりも共に時を同じくした中条が不便を感じるのは、当たり前だった。 「云っておくが、これは『長官』としての後悔でもあるが――『中条』としての後悔でもあるんだよ、先生」 つん、と額を突付かれて顔を上げれば、『そのままの形で固まってしまうから止めたまえ』と眉間のしわを揶揄われる。 「なぁ、呉君。君は『遠回りした』と思っているようだがね、私はそうは思わない。この十年間は、今の『君』という存在を構成する為には無くてはならなかった時間だと、私は思うよ」 失った時を嘆いても仕方ないと思わないかね、と優しい声が呉を甘やかす。 「ブランクを埋めるのは並大抵の努力では難しいだろう。だけど、それが出来ると…少なくともそれさえも凡て覚悟の上でそこに立ったんだろう?君は」 「…ええ」 「だったら、貫き通さなくては」 大人だ、と思った。 自分一人では決してそんな風には考えられなかっただろう。 自分の性格は自分が一番良く知っている。 後ろ向きになったり悲観したり嘆いたり。 そういうマイナスに向かうのは自分の一番の得意技なのだ。 この十年間を無事に越えて来られたのは――中条の傍らだったから、というのも大いに要因していると思う。 気が付かぬ内に、お互いがお互いに作用しあっている。 息をするよりも自然に。 (離れて解る…恩、か) その恩恵を初めて感じて呉は、少し微笑んだ。 「…漸く笑ったね」 大きな手が伸びて、くしゃ、と前髪がかき乱される。 「ちょっ…何をなさるんですかっ!もうっ!」 「呉君は笑っているのが一番良い。怒っているのも悪くはないが」 怒りながら手を振り解こうとするが、ますます執拗に中条の指は髪を絡めていって。 終いにはくん、と前に引っ張られる。 瞬時、こつんと、額と額が合わされて。 「…それにな。そんな風に『遠回り』だなんて思われたら…私達も『無駄』だったと切り捨てられているのかと…淋しくなるよ」 「長官…」 何処か甘えるような、翳りを帯びた声が、こっそりと聴覚に注ぎ込まれた。 家族のように。 親友のように。 戦友のように。 十年間ずっと一緒に居た、人達。 その人達の存在を否定するつもりは毛頭、無い。 呉は、瞼を伏せ、微笑んだ。 中条も、お返しのように微笑んでくれる。 久し振りに流れる穏やかな時間に、心がゆっくりと解けてゆくのを感じながら呉は、萎えそうだった気持ちがしっかりと支えられてゆくのを感じた。 大丈夫。 一人じゃない。 背中に沢山のものを背負っていると云う事は、沢山のものと共にあると云う事。 額と額がくっついた処から、あったかい物が流れ込んできて。 耳に猥雑にならない程度の雑音がまた戻ってくる。 人々が生きている音。 倖せの音。 それらを耳にしながら、呉はそっと目を開け――同じ様に薄目を開けてこちらを見つめていた中条と視線を合わせ 「……ふふ」 「ははっ」 満ち足りた笑いを零しあったのだった。 「…あの、あの二人なんスけど…」 その頃、カフェの厨房からその光景の一部始終を見守っていた、誰をかあらん中条と呉のテーブル担当の青年が、先輩のソムリエエプロンを引っ張った。 「ああ?あー、もうそんな時間か」 先輩はちらり、と件の席に目をやると、事もなげに、そしてさして興味が無いように云った。 「あ、あの?」 「お前、見た事なかったっけ?あ、昼に入るのは今日が初めてか」 こくこくっ!と激しく頷く青年に、云い聞かせるように先輩は語る。 「あれは、この聖アー・バー・エーの昼名物だ。あの『梁山泊』が此処に落っこちてきた翌日くらいからずーっと毎日、同じ席で同じ様な事やってんだよ。害はないから放っとけ」 「ええっ!で、でもっ…」 「その内お前も、嫌でも慣れるよ。何せ…毎日なんだからな」 はああー…と零された先輩の溜息に青年は、本日提出する予定だった己の希望シフト表をくしゃりとポケットの中で握り潰した。 夜型のシフトから昼型に変更してもらおうと思ったが――止めだ。 あんなものを毎日見続けるくらいなら、多少仕事が苦しくても良い、夜型で頑張ろう、と。 青年の希望シフトが通ったかどうかは、神のみぞ知る。 ■おわり■ ギャグ落ちにしてしまった中呉というか寧ろ呉中。 軽々しく手を付けて良い分野では無かったと深く反省しています。 2003/02/15 |
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