もっともそうな二人の沸点 |
どうしてかな。 どうして人は自分に都合の良い夢を見るのかな。 目が覚めた時、とても虚しくて、悲しくて、例えようも無い程辛いのに。 どうしてもう、取り返しのつかない事を夢の中で、無かった事にしてしまうんだろう。 まだ、諦められないのかな。 あの時、今自分のいるこの道を選ばなかったら、という未来を。 「樊瑞殿!」 ぱしん!と頬を叩く手の感触に、はっと樊瑞は目を開けた。 「執務室で居眠りとは、随分お暇そうですねぇ?仕事の量が足りずにいらっしゃるのでしょうか」 「…孔明…?」 一瞬、自分が何処にいるのか解らず、目をぱちくりと瞬かせる。眠りから覚めた直後の、あの茫洋とした気怠い感覚が全身を覆っていた。 辺りを見渡せば、慣れすぎた部屋の装飾。匂い。鈍く射し込む月の光の傾き方。ああ、此処は本部内の自分の部屋だ。その事に安堵を覚え、ほぅと溜息をついた樊瑞は眼前に仁王立ちになっている孔明に軽く頭を下げた。 素直な詫びと、そして若干の感謝を込めて。 取り敢えず、殴られた事は忘れてやろうと思いながら。 「すまん…いつから来ておったのだ?」 「たった今ですよ。先日ご提出頂きました書類に不備がありましたので、お持ちしたのですが」 むっすりと云って孔明がぽん、と机の上に書類を放り出す。 「外から声をお掛けしても一向に返答が御座いませんでしたので、誠に勝手ながら入らせて頂きました。廊下でぼんやり待つ程私も暇ではありませんし?それに冷えるのは嫌ですからね」 「それは悪かったな。暖めてやろうか?」 「ふざけるのも大概にして下さい」 軽いジャブ程度のジョークを一蹴され、樊瑞は咽喉を鳴らして笑った。余りにも当たり前の日常が、ひどく自分を安心させる。これが、今自分のいる世界なのだと再認識出来るから。 放り出された書類を見れば、しっかりと朱色で誤りが訂正されている。此処までするのならば序に書き直しておいてくれても良いものを、全く融通の利かぬ策士だ。 尤も、それをし始めると彼の一日はそれだけで終わってしまうのだろうが。 「…樊瑞殿?」 「ん?どうした?これは後から持って行かせれば良いのだろう?」 「ええ、そうですが――」 ふと孔明が机越しに顔を覗き込んでくる。とろりとした闇のように深い、純黒の瞳がまっすぐに自分を射抜いているのが解って、思わず目を逸らしてしまった。 居た堪れない――違う、バツが悪いのだ。 居眠りをしていたのがばれたからではない。こんな時に彼と顔を合せている事、それ自体が。 「お顔の色が優れないようですが、お加減でも悪いんですか?」 聡い。そう口にしそうになって樊瑞は言葉を飲み込む。この観察力の鋭さ、何よりの孔明の武器がますます居心地を悪くさせた。 「いや――その、何だ…最近寝付きが悪くてな」 くしゃり、と髪を掻き上げる事で表情は隠せても、隠しきれないのはその声音。 「その割には今、眠ってらっしゃったようですが?」 揶揄うような笑みを刷いた彼に力無く笑い返して『確かにな』と云い、樊瑞は立ち上がった。どうにも机の前に賢く座っている気分ではない。孔明が訝しむように視線で自分を追うのに任せながら――来客用の長ソファにごろり、と横になって眼を瞑る。 ギチ、となめし革の軋む音と、甘酸っぱい匂いとが鼻腔一杯に広がり、そして沈静化した。 「樊瑞殿?…本当に――」 「――眠れんのだ」 怯えた様な(或いは心配そうな)孔明の声を摘み取って、樊瑞は独白する。相手が訊こうが訊くまいが構わない。ただ、話す事で楽になりたかった。何て独り善がりな、我侭な感情。 「…安眠に効くお茶でもお淹れしましょうか?以前、不眠に効くと残月殿に頂いた葉があるんです」 案に違った優しい孔明の声が、上から降ってくる。つ、と瞼を引き上げると、影になってしまっていてよくは解らないが――自分を見下ろす眉を顰めたその顔は、心配そうな表情をしているように、見えた。 らしくないのは自分も彼も同じ、という訳か。可笑しくなってクス、と鼻先で笑いながら樊瑞は続ける。 「眠れぬ、のとは違うな。眠りたくない、夢を――見るのが、怖いのだ」 まるで子供のようだがな、と肩を竦めて見せれば、孔明は何も云わずただ、首を左右に振って否定した。見上げる視界の先、ふわりと扇のように黒髪が広がる。 「同じ夢ばかりを、何度も繰り返し、見る。それが正直…辛い」 滑らかな手触りは癒しの力があるのだと云う。指を伸ばして掬い取ってやった髪はさらりとしていて成る程、心が慰撫されるような気がした。 「…どのような夢をご覧になられるのです?」 静かな彼の声。どういう風の吹き回しかは解らないが、其処からはいつもの、あの冷たい調子は除去されている。染み入る――響き。 「夢の中で…儂は、な」 両腕を重ねて瞼に蓋をすれば、眼窩内部の闇が濃くなる。世界を自ら遮断すれば、ソファごと床にずぶずぶとめり込んでいきそうな感覚に取り巻かれた。思った以上に疲れているのかも知れない。 「昔の仲間――BF団に来ると決め、袂を別った筈の者達と一緒に居ったのだ。しかも虫の良い事に『今』の立場、そのままで」 頭が下がった事で口から零れる言葉が流れ着くのだろう、視界の奥に蘇ってくる夢はリアルさを増した。気持ちが悪い程、鮮明な――。 「……」 きし、と足元近くでソファが鳴き、僅かに陥没する。何も云わない彼が、自分のこの告白をどんな顔で、どんな思いで訊いているのかが少しだけ気になった。 『存外弱い男よ』と――馬鹿にされていなければ良いのだけれど。 「儂は、それが夢だと解っておるのに、とても嬉しくて――そして目が覚める」 兄弟子が居て、弟弟子が居て、そして師が居て。まだ若く、世界の凡てがありとあらゆる可能性に満ちていた頃。 「目覚めは例えようも無い程最悪な気分で迎えるのだ。決して手の届かぬ奥底の、じくじくとした痛みを背負わされたような、な」 手に取るように思い出せる、あの山の風景。もう遠い昔に離れたあの場所を、これ程までに鮮明に思い出せるその記憶の惨さ。自分の登ってきた、階段の道程。 「樊瑞殿」 ゆさ。脛を揺さぶられても、目の奥に流れる情景はブレる事は無い。残酷なまでのリアルな存在感を伴って、樊瑞を手招きしている。 「有り得る筈の無い未来を夢に見るなど、惨めな事この上ない。もう見たくも無いのだ。だが」 「お止しなさい、それ以上は――」 「なぁ、孔明。儂は何処かオカシクなってしまったのかも知れん。自分で自分の思いが解らんのだ」 しかし一度零れ出した感情は暴れ馬の如く突っ走り続け。トップスピードに乗った回顧も告白も、自分でさえ止められやしない。 「もしかして儂は心の何処かで、あの失った時を取り戻したいと切望しているのかも知れぬ」 嬉しいのか、苦しいのか。鬩ぎあう正と負の両極の感情。どちらを抽出すべきか迷った脳は、結果として樊瑞に混乱を齎し、無意識と意識の境界があやふやになってしまう。 「此処に居るべきではないと、それは『失敗』だったのではないかと――だがそれが真なのか偽なのかさえ、解らなくて――」 「樊瑞!!」 孔明に呼び捨てされるのは初めてだ。そのきつ過ぎる声にビクリ、とした瞬間、ぐいと腕が引っ張られ、視界が開ける。引き上げようとする力に逆らわず半身を起こすと、怒りを隠さぬままに眉を寄せた孔明と、真正面から目が合った。 「そんな夢くらい、何ですか。そんなものくらい誰だって――見るでしょうに」 それは怒りと云うよりは、何処かしら痛みを帯びたような表情。僅かに震えている、声。 「格別貴方が弱い訳でも、複雑な訳でもない。誰だって同じなんです。…私も含めて」 その告白に少しだけ樊瑞は驚かされる。だって彼はいつも超然としていて、何の憂いも無く生きているように見えていたから。何にも執着せず、何にも囚われず、何も惜しまぬように。 見えぬところで傷付き、血を流し、今尚その凶器は昇華されぬものとして彼の奥深くで、寄せては返す波のように浮沈しているのかも知れない。 「人格形成期は、今の貴方のベースを作った時代なんですから。日常の折々や夢に現れたりするのもおかしな話では無く、寧ろ当たり前の事でしょう」 さらり、と今度は細くしなやかな指に、樊瑞の髪が絡め取られる。透き下ろす指の動きが心地良くて目を閉じれば、孔明の所作がまるで一種の祈りのように感じられた。掻き乱された神経の糸が、ゆるゆると解かれていくようだ。とても――落ち着く。 「無論おかしくないとは云え――辛く苦しい事ではありますが」 「…忘れたいのに忘れられないのは嫌だ。向こうは儂の事などもう、何とも思ってはおらぬだろうに、儂一人だけが拘って」 擽るような優しい孔明の声音に誘われ、ゆらりと彼に向けて倒れ込んでいくと『重いですよ』と抗議はされたものの、跳ね除けられはしなかった。 「苦しくて忘れられない事なんて、沢山ありますよ。時が凡てを解決するなんて、嘘です。それをどう乗り越えるかが肝心なのではないでしょうか」 世界の真理を優しく否定する声はしかし、樊瑞の気持ちを癒し切る事は無い。何故なら苦しいだけではなくそれは。 「この夢は、過去からの警告なのではないかとも思うのだ」 「?」 多少の不満はあれど、『今』の自分は、概ね幸せに生きている。幸せ。そう、『あの頃』と同じように。 けれど、過去の幸せは脆く儚く消え去ってしまった(勿論自分から手放した所為もあるのだが)ではないか。 「安穏に溺れ過ぎぬように、踏み込み過ぎぬように、何もかも捧げぬように――いざ、という時に『自分』を護れるように」 馬鹿みたいだ。悲しい、と思う。そんな風に予防線を張ってしか人と向き合う事が出来なくなるなんて。絶対に『此処』が駄目になると決まっている訳でもないのに。 それでも、一度躓く事を知った足は、怯え、震え、立ち止まろうとするのだ。 ああ、自分は何て――。 「情けないだろう?」 しかし孔明からは否定も同意も無かった。ただ、先刻程と同じように口唇を尖らせ、明確に『拗ね』の表情を現している。 「…何を怒っているのだ」 「ひどい。あんまりです、樊瑞殿」 「何が」 「そんな風に身構えられたのでは『此処』は一生、貴方の『一番』にはなれないじゃないですか。そんなの不公平です。――勝負さえ出来ないなんて」 向かい合っていた顔が、ぷい、とそっぽを向いた。子供地味た仕草、言葉。長年孔明と共に時間を過ごしたけれど、こんな彼を見るのは初めてだ。 そんな事を云われたのも。 笑みが、口を突く。一瞬なりとも視界が、晴れる。 樊瑞は起こした半身を斜め135度まで傾けると、僅かに目元を紅潮させた孔明の顔をわざと覗き込んでやった。 「――妬いておるのか?お前は時々、どうしようもなく可愛いな」 手を延ばして、賢しい頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。性根と異なる真っ直ぐさをした 髪が指先で縺れ、強く樊瑞の指を締めつけた。心を締め付ける鎖よりも強い力で。 「寝言は寝てから云って下さい」 いつもの辛口で切り返され、びしっと鼻先を指で弾かれる。勢いで頭が傾ぎそうになるが、其処はぐっと堪えた。仮にも十傑集が文人に仰け反らされるなんて(しかも肉体的に)、恥も良い所だ。 「こいつめ、痛いではないか」 仕返しに鼻を抓んでやると孔明は、『つまらない事を仰るからですよ』などと小憎たらしい事を云いながら、腕をばたつかせて身を捩る。 ソファの上の他愛ないドタバタは、やがて樊瑞側に旗が上がった。尚も暴れる孔明の身体をソファに抑え込み、上から参ったか、と見下ろせば―― 「ククッ…」 「ふ・ふふ…っ」 笑いの発作が突然二人を襲う。 ほぼ同時に吹き出して額と額を寄せ合い、指と指とを組み合わせ、手を繋いだ。 上目遣いの視線同士が誘い合い、一瞬だけ体温が溶け合って、離れる。情事の色合いは無く、其処に漂うのは堪らない程の愛しさ。 親愛。仁愛。敬愛。慈愛。情愛。労わり合う、心。 額に一筋落ち掛かっている前髪をそっと指で掬い上げてやれば、擽ったそうに孔明が目を細める。 「ねぇ、樊瑞殿」 と、不意に囁きと共に腕が伸ばされ、樊瑞の首に絡められた。 「この世に決して永遠のものは無いけれど――でもその瞬間を、『今』を、『永遠』だと思える気持ちがあるのならば、仮初めでも絵空事でも良いじゃないか、と私は思うんです」 引き寄せられるままに孔明の肩口に顎を乗せ、樊瑞はただその声に聞き入る。春の夜の夢の如く果敢無いものであると解っていながら、わざとそれに乗っかろうじゃないか、と。 僅かな心の平安の為に、騙されようじゃないか、と。耳元で自分よりも遥かに聡い男がそう、笑った。 「だから例えばその夢が過去からの警鐘でも、知らぬフリをしましょうよ」 直接流れ込む言葉が脳を揺さぶり、夢の余韻を静かに、だが確かに押し流していく。 「まだ来ない明日を恐れて今を無駄にするなんて、馬鹿げています。するかしないか解らない将来の後悔を憂うより、今後悔しない事の方が大事だと、そうは思われませんか?」 ね?と同意を求める声に、樊瑞は顔を上げた。迷う事を知らぬような純黒の瞳が自分を見上げている。 何が正しいのかは知らない。本当の事は解らない。でも、孔明の言葉にただ頷きたい、と。 そう思った。 嘘でも、詭弁でも、良い――。 「過去でも未来でもなく、貴方は此処に『今』、私達と共に生きているのですから」 髪を撫でる緩やかな手の動きに、涙が出そうになる。一人で模索していた道の果て、漸く目的地に辿り着いたような安心感。 「尤も?私達の事なんて別にどうでも良いって思ってらっしゃるのなら――話は別ですが」 「馬鹿者」 拗ねた物云いに苦笑が洩れた。けれど感情が胸にぐ、と詰まって、完全な笑いにはならない。それを誤魔化すように孔明を掻き抱いてその髪に顔を埋め、表情を隠す。 目頭が、呼息が、熱い。こんな風に自分を思ってくれる存在を、どうでも良いなんて思える訳、無い。 「そんな訳――あるか」 ――生きていく、という事は怖い。記憶が層になって積み重なっているから、油断した時に浮き上がってきた過去に踵をがぶり、とやられてしまう。 けれどその過去が無ければ、ほんの一歩道が違っていれば、今の自分は無いだろう。 何処か全く別の所へ行った、別の人間になっていたに違いない。『今』大事な人達に出会う事も無いままに。 忘れる事を望み、そして感謝し続ける奇妙な心。多分永遠に解決し得ないアンチノミー。 だけど――。 「変な事を云って、済まなかったな」 「いえ、私は嬉しかったですよ?樊瑞殿はいつもお一人で堪えられるから。まるで頼って頂けたみたいで…っと」 よいしょ、と腕の中にすっぽりと彼を収めたまま身を起こすと、勢い余って今度は逆に樊瑞が、背中から倒れ込んでしまった。『何をやってらっしゃるんですか』と呆れたように呟きつつも腕の中の孔明は、抗う素振りも見せず咽喉を鳴らして笑う。 「それに、謝るのは私の方です」 「何に対して、だ?」 心当たりに行き当たらず素直にそう問えば、胸に押し当てられた孔明の頬がひくつき、吐息が辺りを温めた。 「先刻程仰ったでしょう?此処に居る事は『失敗』だったのではないか、と。でも、それはなんて『幸運な失敗』だったのだろう、と――思ってしまったんです」 悪戯が見つかった子供のような笑い声が胸元で弾む。懺悔には余りにも程遠い、日差しの声。 「――…ああ…」 そんな一言で、世界が色を変える。 「…その通りだな」 これ程までに幸せならば、失敗でも良いと――そう思った。 「気鬱が晴れたのなら、もうお休みになって下さい。それまで此処に居て差し上げますから」 安堵したように微笑んだ孔明が、ちょん、と腕を立て、二人の間に隙間を作る。物理的なあれこれはくしゃくしゃになって縺れたり、皺になったりしてしまっていたけれど。 「待て、執務室で寝ろと云うのか?余計に悪夢を見そうだぞ」 心は直ぐやかで綺麗に伸び、樊瑞は歪む事無く真っ直ぐに笑う事が出来た。 「おや、それもそうですねぇ…じゃあ、おまじないでも差し上げましょうか?」 身を起こして、まるで母子のように真正面からハグを交し、樊瑞の少し長めの前髪が掻き上げられる。 ゆっくりと、柔らかに、額に口唇が押し当ててくるその孔明の顔が、薄目を開けていた樊瑞にはまるで、祝福を授与するオラクル(神託僧)のように――見えた。 こんな風に、『今』の『永遠』を共に生きる者達が自分を求めてくれる限り、そして自分が彼等を大事にしたいと思う限り、夢は夢のまま、黎明に溶かしてしまえるだろう。 きっともう二度と、過去の顎に足を取られる事は、無い。 そんな気が、した。 ■おわり■ 2500HITで頂戴した「樊瑞と孔明」「過去と今」「シリアス」リクでした。 激しくやっちゃった感が否めない樊孔。樊瑞を甘やかす孔明という図式が好きです。無茶です。 リクエストして下さった島田様に捧げます。有難う御座いました。 そして最悪な事に、後日島田様からこのSSのイラストを数点ふんだくってしまいました…。 いちゃかわラブ系なので、ご注意の上 ■こちら■ からどうぞ。 2003/06/12 |
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