愛は静かな場所へ降りてくる














「おじ様、いらっしゃいますか?」
こんこん、という軽いノックの音に、樊瑞は眼を覚ました。うっかりと机に突っ伏して寝入ってしまったらしい、腕の下で書類がくしゃくしゃになってしまっているのに、樊瑞は『拙い』と肩を竦める。こんな書類を提出すればあの潔癖症の策士がどんな顔をするか――。
書き直すか。そう潔く思い直すと、目を覚まさせてくれた相手に『うむ。居るぞ』と云ってぐしぐしと顎の辺りを擦った。
よだれや紙の痕など――残っていなければ良いのだが。
机の上をざっと片付け、序でに先月のままになっていた卓上カレンダーをべりっと捲る。
いかにも『周囲の状況を省みる間も無い程忙しいです』という格好では――彼女に気を使わせてしまうかもしれない。
『失礼します』と云いながら入って来た、一服の清涼剤のような存在に樊瑞は双眸を眇めた。
サニー・ザ・マジシャン。自らが後見人を務める少女。年若く(実際自分にこれくらいの娘がいても可笑しくない)愛らしい彼女はちょこん、と可愛らしく膝を折って足音を立てずにそっと自分の前に立った。
疲れが癒されるような笑顔だ、と思う。久し振りに見るとその想いも強い。
昨日まで遠方へ出張に出ていて、朝方に帰って来、そのまま報告書を作成していた身には――本当ならば雑談等はちょっと辛いものがあるのだが。
サニーならば。樊瑞もにこりと努めて柔らかく笑うと少女を出迎えた。
「お帰りなさいませ、おじ様。出張お疲れ様でした」
「うむ。長きの留守の間変わった事は無かったか?」
「ええ」
にこにこり。少女が笑っている。釣られて樊瑞も笑うのだが――さて、一体どうした事か。
何か用があってのおとないだろうに、一向にサニーは用件を切り出そうとはしない。
かと云って自分から促すのもまるで『早く帰れ』と云っているようで気が悪い。うーむ、と考え込んでいると『うふふ』とサニーが可愛らしく笑って、つ…と机を回り込み、樊瑞の真横に立つ。
「おじ様」
「な、何だ?」
「私――」
じっと見つめられて、何故か狼狽してしまう自分が情けない、とは思うものの、この純真その物の瞳で凝視されれば、大多数の人間が自分と同じ反応を示すだろう。あう、と根を上げながらサニーの言葉の続きを待つ――と。
「私、おじ様の事、大ッ嫌いですわ」
「――は?」
にっこり。笑顔の果てに落とされた言葉に、樊瑞は咄嗟に反応する事が出来なかった。
『大嫌い』…『大嫌い』って――とっても『嫌い』という意味の『大嫌い』なのか?
ぐるぐる、と頭の中で回る言葉に翻弄されていると、サニーが
「では、失礼致しますわね」
と云って軽やかに部屋を出て行く。
その背中を見送りながら何も云えず、樊瑞はただ呆然と立ち竦んでいた。
頭の中でひっきりなしに『何故?』を繰り返しながら。


◇◆◇


しかしいつまでも放心状態のままではいられない。
涙で霞む視界を拭いながら必死に報告書を仕上げ、樊瑞は執務室を出た。
この報告書を孔明に提出したら、ゆっくり寝よう。そしてもう一度サニーと話をしよう。
自分が気付かぬ間に何か仕出かして彼女を傷付けていたのなら――謝らねばならない。
笑顔にて『大嫌い』と云うなんて、彼女はどれ程の怒りを抱えていたのだろう。自分のショックはさて置き、サニーの心中を勝手に思いやれば申し訳なく思う気持ちが溢れてくる。
「サニー…」
未練がましくもぽつり、呟いてコンコンと孔明の執務室の扉を叩いた。
「はい」
中からの返事はいつもの如く不機嫌そうに――いや、いつもとは様子が違い、何故か妙に機嫌良く聞こえて、一瞬背筋をふるりと震わせながら中に入る。
と、其処には先客が来ていた。しかも、此処で顔を合わせるのは一番避けたい人物が。
「おお、じっ様もお出ででしたか」
「うむ。孔明に作戦概要を貰いに、な」
カワラザキが手にした書類をヒラヒラさせながらにこり、笑っていた。
『笑う』――?
あのカワラザキが孔明の部屋で笑っている、そのそぐわなさがますます樊瑞を怯えさせる。
一体此処で何が起こっているのだろう、と。
「ああ、樊瑞殿。報告書ですか。いつもながら手早い処理、本当に有難う御座います。1ヶ月間、お疲れ様に御座いました」
孔明もにこり、と笑って――笑って!――自分に手を差し伸べた。何か悪い物を食べたのだろうか。本心で心配しながら樊瑞は、それでも鉄壁の精神力で何とか平静を装い、彼に書類を手渡した。
「う、うむ…す、すまんな。少々紙がよれておる上に、若干悪筆なのだが――」
ぱらりと目の前で孔明が書類を捲るのに合わせ、樊瑞は自己申告をしておく。いつもならば書き直して持ってくるのだが、サニーショックにより今日ばかりはその気力もなかったので。
再提出かな、そう覚悟をしていると
「いえいえ、とんでもありません、樊瑞殿。実に完璧な報告書です。これくらいの事、大した事ではありませんよ。どうぞお気になさいますな」
再びの笑顔に、今度こそ樊瑞の背筋が凍りついた。
怖い、なんてもんじゃない。天変地異の前触れかもしれない。一体自分を放って、世界はどうなってしまったんだろう――ガタプルと震えていると、更に目の前で恐ろしい光景が繰り広げられる。
「ではカワラザキ殿、こちらをお持ち下さい。本来ならば私が足を運ばねばならぬところ、わざわざお出で頂きまして申し訳御座いません」
「いやいや、何を云うか孔明。お主は日頃より何かと忙しない身。このような事で時間を取らせるのも申し訳無いでな。気にするな」
「本当にカワラザキ殿はお心の深い――この孔明、感じいって言葉も御座いませんよ」
「なぁに、お主には敵わぬよ」
うふふ。ははは。笑い声が孔明とカワラザキの間で起こっている。労わり合う二人なんて構図は、とんでもない破壊力だった。
樊瑞は『関わりたく無い!』と心を決めると、挨拶も早々にその場を立ち去る。あの二人の間にどんな思惑があるのかは知らないが、狐と狸のバカし合いに付き合って、寿命を縮めるのはゴメンだと思いながら。

しかし、孔明の執務室を出たところで悪夢が覚める訳ではなかった。ちらりと寄ったラウンジでは、寄ると触ると小競り合いばかりのレッドとヒィッツカラルドがにこやかに談笑し(しかも美辞麗句を連ねているのではなく、本心から互いを称え合っているように聞こえた)、その光景に恐れをなして立ち去れば今度は廊下でイワンとローザが腕を組み、楽しげに歩いているのを発見してしまう。
どうなっているのだ。ほんの少しの転寝の間に、自分は異世界へと――普段と全く逆の感情で構成されている世界へと迷い込んでしまったのだろうか。
ほうほうの体で執務室へとこけつまろびつしつつ帰ると――そこには
「ざっ…残月っ…!」
表情の読めない彼を、これほど有り難く思った事があろうか。半ば縋り付くように樊瑞は残月に泣きついた。
「一体何が起こっておるのだっ!頼む、お主が誠に残月ならば――儂が誠に『儂』であるとするならば、状況を説明してくれ!!」
耐え切れない――確かにカワラザキ翁と孔明の仲の悪さ(勿論自分と孔明の場合も含める)、レッドとヒィッツカラルドの小競り合い、イワンとローザの確執、そういったものに自分は普段から心を痛めてきた。
けれど慣れとは恐ろしいもので、いざ願い通りに上手く纏まってしまうと――怖いのだ。
良い、今までのままで良い。だから平穏を返して欲しい。
ひーん、と泣き付くと、ふとマスクの美丈夫が空気を震わせた。
――笑っている、らしい。
「ざ…残月?」
「樊瑞…そう云えばお前はここ一月程留守にしていたのだったな」
くっくっ…と肩を揺らしながらぽむ、と宥めるように頭を撫でられ、樊瑞は戸惑いながらもやや安堵した。これは、間違いなく残月だ。様子に変わったところも見られない。
尤も、サニーもカワラザキも、最初は『変わっている』ようには見えなかったのだが。
「まぁ落ち着け、樊瑞。ゆっくりと深呼吸をしてから、今日が一体いつなのか思い出してみろ」
云われるままに樊瑞は深い呼吸を繰り返して――そして残月の『ヒント』通り、今日の日付を思い出す。先程カレンダーを捲ったばかりだから記憶に新しい。
今日は――4月の1日、だ。
――4月1日?
「……え…?」
「お前が作戦に出ている間にな、毎度の事ながらビッグファイア様からの下知が飛んだんだ。――あのクリスマスやヴァレンタインの大騒動の時と同じ様に、な」
「……何…?」
曰く、4月1日は全世界的に『嘘をつく日』に認定されている。我々BF団も、何れは世界征服をする身なれば、このような行事は進んで取り入れるべきだ――。あの主の云いように、誰が反対出来るだろうか。
BF団は、策士をも含め皆ペテンの集団と化し、お陰で樊瑞は、異世界に迷い込んだかのような混乱を来たしたのである。先程見た光景は、何もかもが嘘偽りだったのだ。
「万愚節…か……?」
「その通りだ」
これは『嘘』じゃないからな、と笑った残月に、安堵と脱力でへなへなと樊瑞は膝を折った。
良かった、嘘で。
十傑集のリーダーとしての矜持を保とう、と意識していなければ、きっと泣き崩れてしまったに違いない。両膝をぺたんと床につくという、今でも十分に情けない格好でほぅ…と息をついて樊瑞は、はっとある事に気付く。
サニーが自分に向かって『大嫌い』と云ったのは万愚節の一環だとすれば、彼女の気持ちは――。
「ざ、残月」
「何だ?」
「すまん、用件は後回しにしてくれ!儂は行かねばならん!!」
云うや否や、彼の用件も、序でに返事も聞かずに部屋を飛び出す。向かうはサニーの居室。
彼女の言葉が『嘘』だとすれば、彼女がその言葉に乗せて云いたかった感情は。
そして――自分は。
「サニー!!」
ばたんっ!とドアを蹴破らん勢いで開けると、樊瑞はずかずかと部屋に入っていった。
目当ての人物は窓際のロッキングチェアで本を読んでいる――。
「お…おじ様?どうなさいましたの?慌てて…」
「サニー!」
「きゃあっ!」
わしっ!と肩を掴んでぐいと彼女を引き寄せると、樊瑞は彼女の顔を無理矢理自分の胸に預けさせ、そして――云った。
「儂も…お前が『大嫌い』だぞ、サニー…」
「お…じ様…」
きゅう、と背中にサニーの腕が廻される。温もりがゆっくりと伝染してくる。
嘘で、本当に良かった。この幸せこそが『嘘』でなくて良かった。
何よりも自分を幸せにしてくれる存在が、自分を否定しているのでなくて、本当に良かった。
こんな少女に自分を委ねているという事実は少し情けなくもあるけれど。
でも情けなくて良い。感情を左右する程の大きな存在。それがすぐ傍らにあるという事。
その存在が自分と同じ気持ちでいてくれるという事。
矜持も、自尊心も、何もかもどうでも良くなる。
「…ふふっ…」
「……ははは…」
顔を起こし、眼と眼を見交わして――擽ったく眼を細めて二人は抱き合ったまま笑った。
少女の部屋の掛け時計が、軽やかなワルツを奏でながら正午を告げる。
おりしも窓の外ではほろほろと櫻のはなびらが、廻りながら散っていた。
まるで――二人と――世界と一緒にダンスをしているように。


◇◆◇


甚だしく余談ではあるのだが。
「…残月、これは?」
「孔明が持ってきた。一両日中に手直しして持ってこなかったら、必ずひどい目に合わせる、と云っていたぞ」
誤解が解け、機嫌良く執務室に戻った樊瑞を出迎えたのが、残月と――先刻『万愚節』中に孔明に提出した筈の、大量の報告書であった事は、云うまでも無い。
『万愚節』の期限は午前中だったな――そんな事を思い出しながら樊瑞は、書類のリライトに勤しむのであった。













■おわり■






2000HIT代替リクは相方さんから。樊サニでした。ちゃんと樊サニになっているかは謎です。
個人的ににこにこ策士様が書けて幸せだった一品。阿呆です…すみません。


2003/05/27






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