幸せについて本気出して考えてみた














溜息が、しんとした部屋に響き渡る。
誰一人として聞く事の無いその吐気は、本人の耳にこだまを伴って戻って来て、余計に鬱々とした気分に囚われた。
毎度の事ながら、孔明は困っていたのである。
今日は暦の上では2月14日、バレンタイン・デーであった。
それが今日(こんにち)のBF団でどういう意味を持っているのか、孔明は知っている。
他ならぬ孔明がその馬鹿馬鹿しい――主の言に向かっての云い様では無いが、どう考えたところで馬鹿馬鹿しいの一言に尽きる――決定を布達したのだから。
知っている、と云えば、だが、語弊が有る。
『思い出した』というのが正しい。
実は孔明、つい先刻までその事をすっかり忘れていたのだから。
余りにも馬鹿馬鹿しい発表を己でしなくてはならない衝撃と辛さから、精神がその事実を覚えている事を拒否し、綺麗に記憶から洗い流されていた事柄だったのだ。
それを思い出させたのは、十傑集・眩惑のセルバンテスである。
どうも朝から妙にチョコレートを面白そうに、しかも『義理だ』とか意味不明な事を云いながら持ってくる十傑集(詳しく云うと、マスク・ザ・レッドと素晴らしきヒィッツカラルドが憐れみを含みつつ面白そうに、直系の怒鬼が読めない表情で)がいるとは思っていたのだが。
意味も解らぬまま、特に気にも留めずに受け取ったのである。
しかし何かが怪訝(おか)しいと思い始めたのは、孔明の部下である銀鈴とエンシャクまでもがやはり揃ってチョコレートを持って来た時であった。
彼女等に聞くのもまるで物知らずのようで屈辱的だ、と無難に『甘い物は苦手なんです』と断わりを入れ(しかしそれは紛う事無き事実でもあった)、誰か事情が聞ける人間が来れば、と待っていたのである。
そこに顔を出したのがセルバンテスだったのだ。
彼もご多分に漏れずチョコレートを持参していたので、これは幸いと取り敢えず受け取る前に、事情を問い質してみた。
自分を置いて回りは一体何をしているのか。
「何の意図がお有りなのです?」
そう問えば。
セルバンテスが照れたように(気色悪い事この上無かった)もじもじして、答えたではないか。
「やだなぁ、孔明。私の気持ちだよvだって今日はバレンタインじゃないか!」
その言葉に脳内シナプスが蘇り、忘れ去られた記憶が呼び戻された。
そうだった。
今日はあの馬鹿馬鹿しい『日本式・バレンタインデー』だったのだ。
「さあ!受け取ってくれ、孔明!そして二人で愛を語らおうじゃないか!!」
嫌がらせ気分満々の悪戯好きなろくでなしオイルダラーは、即座に部屋から蹴り出したのだが。

「…馬鹿馬鹿しい…」
また深々と溜息をつき、孔明は目を眇めて机の端に積んである包みを見やった。
三人の十傑集が持ってきてくれた真っ赤な包装紙に包まれたチョコレートが三つ、ちんまりと自己主張をしている。
これはまだ良い。
『義理』とか云っていたからには、恐らくは孔明が貰えないだろう事を危惧して(そんなに優しい気持ちからだとは到底思えないが)持ってきてくれた物なのだろう。
問題は、銀鈴とコエンシャクである。
一体何のつもりで彼女等はここに来たのだろうか。
まさか、本気で自分に告白する為に?
冗談ではない。
「そんな事…されて堪るかっ!」
ただでさえ銀鈴の、終わる事の無い押せ押せ攻撃にもう何年間も辟易しているのだ。これ以上胃薬の量を増やすのはゴメンである。
うっかり受け取ってしまわなくて良かった、これも普段の行ないが良い所為だ。孔明は信じてもいない神に、心中で感謝を捧げた。
しかし――神はやはりきちんとご覧になっていたのだろう。
普段は不敬なクセに何を小賢しい、とひょっとしてお怒りになったのかもしれない。
何故なら、孔明が祈りを捧げたほんの3秒後。
新たな災厄が、怒涛の勢いでやって来たのだから。


◇◆◇


「孔明、いるー?」
最初にやって来たのはふわふわした薄い栗色の髪の、10代前半に差し掛かったくらいの美少女だった。
扉からこちらを窺うように僅かに顔を傾けている所為で長い髪があどけなく可愛らしい顔に振りかかっていて、まるでフラスコ画の天使を思わせる。
「おや、ネプチューン様。何か御用ですかな?」
「入っても良ーい?」
「どうぞ?」
促せば、えへへーといつもの掴み所の無い笑みを浮かべて、ほてほてとネプチューンが入ってくる。
彼女は――彼女等はBF団の総帥であるビッグファイアに仕える『三つの護衛団』である。
通常はいずれも人工的に創られた姿を取り、ビッグファイアの守護神として君臨しているのだが、しかし何の因果か、人工物として存在しプログラムに沿って行動する事を定義付けられている筈の彼等(或いは彼女等)には『意志』が備わっていたのだ。
己で考え、己で行動するという意志を。
それを知った主であるビッグファイアが、BF団きってのマッドサイエンティスト、草間博士に依頼し、護衛団がある程度の自由な行動を取る為の受け皿を創らせたのである。
『本体』から意識体だけを抽出し『擬似体』である人型にダウンロードさせるという前代未聞のシステムを天才博士はあっさりと構築し、序でに趣味丸出しの『擬似体』(タイプの違う3人美女若しくは美少女であった)をも創り上げ――そして護衛団は今、日々の時間の殆どを『擬似体』の中で過ごしていた。
その理由の一つは、主を狙う不貞の輩共から主を護るという任務の為である。
いつもの姿だと、常にビッグファイアに付き従おうと思ってもアキレス以外ははっきり云って、無理だ。
何処に行くにも何をするにも、巨大な身体は目立つし邪魔になる。
だが小回りの効く身体ならば、護衛団も常時その務めをまっとう出来る――引いては生産性の向上、という事にも繋がる。
造られた身体は本物の女のようになよなよしい物では無く、力も充分にあるので任務に支障は一切出ない。
そしてもう一つは、主の強い意向であった。
『自由意志があるのに、身体が自由にならないんじゃストレスも溜まるだろうからな。普通のサイズなら好きな事が出来るだろう?』
主らしい思い遣りである。
彼は自分の手元にいる者には非常に甘いのだ。
その提案が決して、彼の個人的趣味から派生している――常日頃からビッグファイアは、十傑集を含めた幹部が男ばかりなので生活に潤いがないと零していた――とは思いたくなかった。
例え、孔明が護衛団の『擬似体』への常駐を受け入れた時に
『やっぱり日常には”華”がないとな』
そう云って、嬉しげに笑ったとしても、である。
孔明としては元より、主の決定に異論を唱える気は無い。
それに彼女等が『擬似体』の中で過ごす機会が増えれば、あの巨体でいるよりも場所を取らないから経費の削減にもなる(尤も『本体』の管理と『擬似体』の開発費やこまめな手入れが必要なので、思った程の経費削減には繋がらなかった。減価償却で償却しきるのを心待ちにしている。しかし『護衛団』は償却対象になるのかどうか、正確な所を孔明は知らなかった。やってしまった者の勝ちである。閑話休題)のだし。
元々無性別だっただけに順応も早く、護衛団は擬似体に入る事によってあっさりと『女性』へとその意識を変貌させたので、違和感も無い。
かくて、経緯は兎も角『新生・護衛団』はBF団に受け入れられたのである。
そんな事をつらつらと思い出しながら、孔明は机の横にやって来たネプチューンを見やった。
彼女は見ている方まで嬉しくなるような、あどけない笑みを満面に浮かべている。
「さて、如何なさいました?」
水を向ければ、ネプチューンは手を後ろに組んで、ゆらゆらと身体を左右に揺らした。
上目遣いにこちらを見る、その瞳に浮かんだ油断出来ない光。
「うん、あのねぇ…ネプ、孔明に貰って欲しい物があるんだけど」
『孔明』を『こーめー』と発音する舌足らずな口調に、しかし孔明は背筋をぞくりとさせた。何だろう、この駆け巡る嫌な予感は。
常に無い彼女の勿体つけた言葉、確かに瞳に浮かんだ悪戯っぽい色。
「ほぅ…一体何でしょう?」
疑念を押し隠して問い質せば、はい、と差し出されたそれはああまさしく――。
「これは…一体…?」
目の前に突き出されたのは、何とも可愛らしい包み。
ピンクとオレンジと黄色の薄いハトロン紙が三枚、少しずらして重ねられており、両端をまるでキャンディーのように絞る形でラッピングされている。
絞ってある部分は薄いグリーンとローズ、アイスブルーに加えて紙と同じ3色の合計6色からなる細いリボンで蝶々結びにされていて、受け取るのも恥ずかしいような少女趣味丸出しの包みだ。
そんな物を『本日』渡されるとなれば、もう中身は半分以上決まっているのだが――。
「チョコレート」
あっさりと恐れていた答えを落とされ、孔明はがくりと撃沈しようとする意識を必死に呼び戻す。
まさか護衛団まで、こんな悪趣味なお祭り騒ぎに乗っているだなんて。
「あ…あの…ネプチューン様?」
「だって、ネプ、孔明の事好きなんだもん」
本気か冗談か計りかねる台詞に、意識が二度目の撃沈を切望する。
「わ…私も…ネプチューン様の事は好きですが…」
孔明はやっとの事でそう云うと、包みを手の平でぐい、と少女の方に押し戻した。
仮にこれがネプチューンの冗談だったとしても、受け取ったという事がもし銀鈴に知られでもしたら、あの猪突猛進粘着気質の小娘がどんな報復行動に出るか解ったものではない。
ましてや報復されるのはネプチューンではなく、この自分なのだから。
「持って帰って下さい」
「ええーっ!」
きっぱりと云うと、ネプチューンが不満そうな声を上げた。
「どうしてぇ?」
「甘い物は、苦手なんです。お気持ちだけ頂戴しますから」
眉を下げ、嫌味の無い媚態で尋ねてくる相手を常套句で一蹴しようと思ったのだが、敵もさる者引っ掻くもの。
ネプチューンは『なんだ、そんな事』という顔をして可憐に笑って云った。
「大丈夫だよぉ、このチョコレート、甘いだけじゃないの!ネプの特製なんだよ?」
「…して、そのこころは?」
「ネプの『本体』に生えてた海産物セットを練りこんで、序でに相性の良い『ジャパニーズ赤味噌』でカバーリングしてあるんだから★」
それはもう、既に『チョコレート』の概念から遠く外れてはいないだろうか――。
というか、そんな物受け取る受け取らない以前の問題だ。
食えるかい。
思わずかなり具体的に味や触感を想像して、吐き気まで催してしまう。
突っ込みすら出来ずに黙ったまま、孔明は猫の子を摘み上げる要領でひょいと彼女の襟首を引っ掴むと、そのまま彼女を強制退去させた。
無論、チョコレートもどきの詰まった包みごと。


◇◆◇


「…孔明…失礼しても…良いかしら…」
ネプチューンを強制退去させてから、約10分後。
想像力が行き過ぎた結果、口内に溢れ返った不協和音に苦々しく眉を顰めていた孔明の前に、続いて現れたのは護衛団のアキレスだった。
しとやかにおっとりとした話し方、と云えば非常に聞こえは良いが、単に無口なだけである。
ぼそぼそと切れ切れに喋るその癖は、それでも以前より相当マシになった方だ。
尤もネプチューンの口数が多く、それに応じてガルーダも適宜突っ込みを入れるので全体的に見れば差引きプラマイゼロなのだが。
「アキレス様…これはお珍しい。如何なさいました?」
アキレスが孔明の執務室を尋ねてくる事など、この長い年月の中でさえ数える程度しかなかった。今回のこれが、今年に入って初めての訪問なのではないだろうか。
余程重大な用件でもあるのだろうか、と孔明はアキレスを差し招き、執務机の引き出し側面にある『内密な話をする時用』の盗聴防止システムのスウィッチをオンにした。
「…ええ…実は…」
落とす言葉は神々しい鈴の音のようにまろやかで、口唇もそんな声を吐くのに相応しく整った美しい形をしている。
長い睫毛は濡れたように黒々としていて、それに縁取られた瞳は深い慈愛に満ちている。
秀でた額は抜けるように白く、髪とのコントラストがとても綺麗で。
草間博士には色々と問題が多いが、美意識はさほど壊れていないらしい、その事に何となく感謝をしたい一瞬だった。
綺麗なものは見ているだけで心が和むものだ。
「…孔明に…どうしても…もらって欲しい物があって…」
しかし、そんな細やかな幸せによってプラス方向へと傾いていた意識が、一気にマイナス方向へと駆け下りる。
おいおい、何処かで聞いたような台詞だぞ、と思いきや。
「…アキレス様…その…巨大な包みは一体…」
孔明の目が、自分でも意識せぬままにぎょっと見開かれる。
彼女が入ってきた時に、最初に気付くべきだったのだ。
入室の許可をしてから余所事を片していたので知るべくも無かったのだが。
アキレスの傍らにどん!と据え置かれている、その――人一人が入っていそうな程巨大な包みは。
「…チョコレート…なのだけれど…」
ああ、やっぱり。
ネプチューンに引き続いてアキレスまで。
何だか護衛団に手ひどく裏切られたような気分になるのは何故だろう。
「ア…アキレス様…お気持ちは有り難いのですが」
ひくつく眉を必死に抑え付けつつ、それでも外向けの笑みを浮かべる事が出来たのは、ある意味意地だ。
孔明はその巨大な包みを見ないように心掛けながら、アキレスに向かって云った。
「大変不調法ながら甘い物は不得手なのです。誠に恐縮ですが、お持ち帰り頂けませんか?」
ネプチューンに対する態度とは随分違うが、結果的には同じ事を云って孔明は相手の出方を見る。
何せ、たおやかに見えても淑やかに見えても相手は護衛団、どういう暴挙に出られるか解ったものではない。
即座に逃げ出せる準備を――心と身体の準備を整えながらアキレスを見守っていると、
「…そう……」
彼女はそう呟いたきり、黙りこくる。
「………」
「………」
沈黙が痛い程、部屋中に漂った。
「あの…アキレス様?」
「…解ったわ…」
促すと、がっかりしているのかそれとも何の痛痒も感じていないのか良く解らない表情のまま、アキレスが頷く。
「…でも…せめて一目だけでも…見て欲しいのだけれど…」
何の感情も浮かべていない顔をしながら、食い下がる食い下がる。
だが孔明も其処まで鬼ではない。
包装状態から見て、アキレスが持って来てくれたのは手作りのチョコレートだろう。
これだけの大きさ――直立した孔明と同じくらいの背丈はある――の物を作るのに、彼女がどれ程の時間を費やしたのかは計り知れない。
それを思いやった孔明は、では見せて頂けますか?と優しく云った。
「…有難う…」
云うなり、アキレスがばりばりっ!と包装を剥いでいく。
見た目を裏切るダイナミックさに半ば見蕩れながら、孔明はその作業を見守り続け――。
そして、最終的に現れた物体を見た途端、『見せてくれ』と云った事を心から後悔した。
現れたのは
「あ…あの…これは…」
思わず口調がアキレスになってしまう。
切れ切れになる言葉を必死に寄せ集めるが、何と表現して良いのか解らない。
こんな事態に遭遇すれば、自分でなくとも恐らく大半の者が同じ状況に陥る筈だ。
何せ出されたチョコレートは――大きい筈だ――等身大の自分を模っていたのだから。
「…名付けて…『等身大・チョコレート孔明』…なの」
名付けられても。
さすがの孔明もどうリアクションして良いのか困った。
『お上手ですね』と云うのも可笑しな話だし、『苦労なさったでしょう』と労うのも何処か違うような気がする。
ただ一言云えるのは――。
食えるかい。
考えてもみて欲しい、自分に瓜二つの形の(アキレスは芸術に優れているのだろうか。
彫像家の造った彫刻のようにそれは孔明に似ていた)食べ物をぽんと出され、さあ食べてくれと云われてはいそうですか、と簡単に口に出来るだろうか。
これはもう、共食いの域に近い。
気色悪い。
という訳で、具体的な感想を述べる事は避け、孔明は『有難う御座いました』と頭を下げると早々にアキレスを退出に追いやった。
当然、巨大な『等身大・チョコレート孔明』ごと。


◇◆◇


「孔明!居やがるな?!」
「帰って下さい」
アキレスを退去させてから3分後、ぐったりと疲れ切った孔明の前に次に現れたのは予想通り、護衛団最後の一人、ガルーダであった。
しかし今度こそ顔すら上げる事無く、書類を片付けながら孔明は素気無く云う。
3人中2人までが同じ用件で来たのだ。
最後の1人が違う用事で来るというのは考え難い。
ましてや普段から非常に仲の良い護衛団の事、この流れからして別件である方が変だ。
話を聞く前に追い返してしまいたい、そう考えても非は無いだろう。
だが、相手が悪かった。
拒絶の言葉を聞いているのかいないのか、扉が壊れるのではないかと危惧する程の勢いで押し入った彼女は、ずかずかと孔明の机へと近付いてくる。
押し込み強盗じゃあるまいし――と半ば呆れながらちら、と視線を上げた、その目に映ったガルーダの姿は。
(――…見なければ良かった…)
即座に視線を手元の書類に戻して、孔明はつくづく後悔した。
怒っている。
床を踏み抜こうとでもしているかのような足音。普段から恰好良くきりりとしている切れ長の眼差しが常にも増して吊り上っている。夕日の紅色を乗せた口唇は艶を含んで、にやりと嗜虐的な笑みを浮かべていた。
彼女が大またで一歩踏み出すごとに、きらきらと日の光に透ける束ねられた長い銀色の硬質的な髪が揺れ動いてプリズムを床の上に映し出す。
わー、綺麗ですねぇ、と現実逃避したくなりながら、最早逃げる事も叶わない己の境遇に突っ伏して泣きたくなった。
他の二人が来た時点で早々に帰っていれば、こんな事にはならなかっただろうに。
だが、後悔は先に立たない。
目の前まで来たガルーダの拳が、前ぶれなくだむっ!と執務机に叩きつけられて、孔明は柄にも無く『ひいっ!』と叫びそうになった。
怖い。
護衛団の中で実は一番恐れられているのがガルーダである。
それは本体にいる時であろうが『擬似体』にいる時であろうが、変わる事は無い。
回りくどい事は好まず、直球勝負の彼女は目的の為なら手段を選ばぬ事もしばしばで。
何を仕出かすか解らない、そんな恐怖が常に付き纏うのだ。
ある意味、孔明が銀鈴に対して抱く畏れに似ている。
びくびくしながらそろり、と顔を上げると――ガルーダは笑っていた。
純粋な笑顔ではない、腹に一物もニ物も抱え込んだ者の笑い顔である。
「孔明…?お前、いつからオレにそんな命令出来る程、偉くなったんだ?」
居丈高に云い放つ顔は本当に綺麗なのだが。
孔明は一刻も早く追い返したい気持ちをなるべく表に出さぬよう努めながら、無理矢理笑みを作って見せた。
若干歪んでしまっていたとしても、それはご愛嬌だろう。
「申し訳ありません、ガルーダ様。誠に恐縮なのですが本日は非常に立て込んでおりまして…。出来ましたら後日、改めてお出で頂けませんか?」
「ハン!お前、オレを他の二人と同じように簡単にあしらえると思うなよ?」
ばれている。
してみる所、どうやら護衛団は連携してここを訪れたらしい。
どうせなら3人一度に来てくれれば、断わるのも一度で済むし疲れも少なかっただろうに。
そう考えて慌てて孔明は自分の考えを打ち消した。
――そんな事態に陥ったところで、手間が1つに纏まる訳など、無いじゃないか。
ふふ、私も馬鹿ですねぇ…と厭世的に遠くを見やった孔明の眼前に。
「用件は読めてんだろ?孔明」
どがっ!とパンツに包まれたすんなりした足が。
何故?どうして?とまだ逃避を引き摺りながら現実を見つめると、ガルーダが机の上に片足を乗せ上げ、凄みながら踵で机上の書類を踏み拉いていた。
ぐしゃぐしゃと音を立てて、決済未決済の隔てなく、書類が無残な姿へと変貌していく。
「…他のお二方がいらっしゃいましたから…って、足を退けて下さいっ!」
必死に彼女の足の下からの救出作戦を試みるが、ますます体重が掛けられてしまう。
「五月蝿ぇ、だったら話は早い。受け取れ」
ぺしっ、と足を持ち上げようとしていた手を払い除けられ、代わりに押し付けられたのはやはりチョコレートだった。他の二人とは趣きが異なり、味も素っ気も無い板チョコ一枚、過剰包装無しバージョンである。
「お二方から聞かれたのでしょうっ?!お断りしますっ!」
孔明もムキになってぺしっ、とチョコを叩き返し、再度書類に手を掛けた。

「てめぇ…竢(いやしく)も護衛団の下賜するモンが受け取れねぇってのか…?」
ガルーダに掛けた手が掴まれ、半ば脅しに似た言葉が齎されるが、ここで妥協すれば名折れだ。
孔明は頑として首を縦には振らなかった。
「無茶な命令に対する拒否権くらいはあるでしょうっ」
「ねぇよ!」
「っ!」
吐き捨てるように云ったガルーダが漸く机から片足を下ろした、と思ったのも束の間。
彼女は机越しに孔明の襟首を掴み上げた。
逃れようと思う隙も無い程の素早さ。さすがは空の王者だ。
冷たい瞳――何処か主に似た、薄い色をしている――で真っ向から、間近に視線を合わせられ、孔明は蛇に睨まれた蛙の如く全身を硬直させた。
「受け取らねーってんなら、オレにも考えがあるんだぜ?」
「お離し下さいっ…お戯れが過ぎましょうぞ!ガルーダ様!」
咎め立てた途端ガルーダが、飽きた玩具を捨てるように孔明を突き放した。
その勢いに足がよろめき、孔明は椅子へと倒れ込むように逆戻りする。
「なっ…」
乱暴な所作に咳き込みながら、何をするのか、と問おうとした瞬間。
「なななななっ…!!」
孔明は我が身に起こった事に嘗て無い程驚愕した。
「――っ!何をなさるんですかぁっ!!」
なんと、ガルーダが孔明の膝の上に乗り上げてきたではないか!
子供が甘えて膝の上に乗っかってくるのとは話が違う。
これは一種の暴力だ。
抑え込まれた四肢をじたばたと動かそうとするが、体勢の利はガルーダにあって。
「大人しくしろよ?」
しかも、である。
にやり笑ったガルーダが器用に孔明を捕縛した(屈辱的な事に、片手で!)まま、板チョコの包装を剥がすとぱきん、と一カケ咥え折り、そのまま顔を近付けて来たのだ。
どうしても受け取らない事に業を煮やして、口移しという古典的な手段に出たらしい。
「ぎゃーっ!!」
意地も自尊心もうっちゃり、孔明はこの世の終わりとばかりに叫ぶ。
ひょっとして気付かない内に涙だって滲んでいたかもしれない。
「やややややっ!止めて下さいっ!!」
ぐいぐいと密着してくるガルーダの身体を必死に押し返すが、彼女はびくともしなかった。それどころか少しずつ、だが確実に二人の距離は狭くなってゆく。
造られた身体とは云え、ガルーダとて女。豊満な胸が己の胸に押し付けられる感触がとんでもなく居た堪れない。
そんな状況を悪くない、と受け止められれば孔明も人間的に成長をするのだが――とかいうのはこれまた閑話休題である。
ともかく、赤くなっているだろう顔をぶんぶんと振りながら、孔明は全身の力を込めて抗いまくった。
まるでひっくり返された亀である。
だが所詮孔明は文官、力の差は歴然としていた。
ましてや相手は護衛団で、しかも人間としての『肉体』ではなく戦う為に造り上げられたボディーで。
敵う訳が無いのだ、最初から。
「五月蝿ぇよ、ホントに。少し黙ってろ」
ぎりぎりの位置まで顔を寄せ、ガルーダが不敵に笑った。
「くっ…」
出来ない相談だ――男としての矜持もある。
恥ずかしさと悔しさの余り頭に血を昇らせながら、孔明はより一層抵抗の度合いを強めた。
と。
「ぎゃっ!!」
ふ、とガルーダが吐気を直接耳朶に吹き込んできた。
途端にぞくりと全身を鳥肌が覆い、思わず力が抜けてしまう。
それを見逃すガルーダでは、残念ながら無かったようだ。
「おいおい、色気のない声出すなよ」
苦笑に似た笑いを刷きながら、一気に間合いを詰められてしまった。
もう二人の間に殆ど隙間は存在しない。
瞬きする睫毛同士が触れ合わんくらいの、距離。
「そんなもん求めないで下さいっ!!」
普通、立場が逆だろうが。
そう毒づきたいのは山々だったが喋ろうとするごとに意識が逸れ、その都度段々不利な体勢に追い込まれていっている現状ではままならない。
「ほら…口、開けろって」
「んんんっ!」
そうこうしている内に、ついに口唇にチョコレートの先端が押し付けられた。
熱で蕩けた甘い香りがつんと鼻を突いて、張り詰めている血管が一気に弛緩する。
別にチョコレートを食べたら死ぬとか、宗教上の理由で食べられないとか、親の遺言で食べられないとか、そういう切羽詰った理由がある訳ではないのだから大人しく享受してしまえば良いものを、何故か孔明も目的を見失ってしまって、抗う方向にしか考えが回らない。
人間的に不器用なのである。
「ぅ…、めて…下さ…っん・」
「何云ってんのか聞こえねーよ…」
口を開かぬままの抵抗の言葉は、くぐもっていて自分でも何を云っているのか良く解らない。
それを揶揄うようにクスクスと笑い、ガルーダの指が孔明の髪に潜り込む。
首筋を撫で上げられ、髪を甘たるく掻き乱される感触に、二人の間で突っ張っていた孔明の腕ががくん、と折れた。
一気にガルーダが体重を掛けて来る。
「ふっ……ぅ――!!」
甘いチョコレートの香り。
ガルーダから薄く漂うコロンの香り。
もし自分でこの光景を客観的に見る事が可能なら、その余りに倒錯的で淫らがましい姿に己の目を覆うだろう。
視界一杯に銀糸が広がり、堪らず孔明は瞳を固く瞑る――。


どがん!どがん!


と、暴力的な打撲音が盛大に2発鳴り響き、膝の上から体重が消え去った。
「……?」
恐る恐る目を開くと、其処に居た筈のガルーダが、いない。
その代わりに視界に入ったのは
「ガルーダぁ、フライングっ!!」
「…抜け駆けは…ちょっと…卑怯なのではなくて…?」
何処から持ってきたのか、鈍器を手にしたネプチューンとアキレスの仁王立ちになっている姿だった。
「っ…てめーらぁっ!!」
ガルーダはどうやら消えた訳ではなく、後頭部辺りをあの鈍器で力一杯殴打されて孔明の上から落っこちたのだろう。
立ち上がり様に吼え、それが響いたのか痛そうに頭を押さえていた。
「ずるいずるいずーるーいーっ!!無理強いはしないって約束したじゃない!」
ぢたばたと足を踏み鳴らし、ネプチューンが抗議している。どうやら彼女等の間では何らかの協定めいたものが存在していたらしかった。
何の為の、どんな協定なのか、考えたくは無かったが。
「ガルーダのエッチ!スケッチ!ワンタッチーっ!!」
「訳の解らねー事を云うんじゃねぇっ!!」
ぶんぶんとネプチューンが鈍器を振り回せば、応戦するようにガルーダも孔明の書棚にあった厚さ10cm程の辞書を構える。
たちまち静寂を尊ぶ策士執務室は、喧騒に包まれた。
だがこの時ばかりは、孔明も決して咎め立てはしない。
何せ人生最大――と云っても過言ではない――危機から救われたのだから。
孔明は肺が破れそうな程大きな深呼吸をすると、当人をそっちのけで争い始めた彼女等に気付かれぬよう、そろりと椅子から下りて壁伝いに出口へと移動した。
古人曰く、『三十六計逃げるに如かず』である。
だが――。
「…孔明」
扉に手を掛けた孔明に、ひたりと掛けられた、声。
硬直した首を、ぎぎぎ…と無理矢理振り向かせれば其処に立っていたのは、乱闘を静観していたアキレスだった。
そしてその傍らには、例のチョコレートが。
「…口に…付いているわよ…チョコレート」
白魚のような指がそ、と孔明の口唇を拭って離れる。
そこには先刻まで押し付けられていたガルーダのチョコーレートの名残が乗せられていた。
「あ、有難う御座いますっ、では私は急用を思い出しましたのでこれでっ」
「…逃がさない…」
そそくさと背を向け、早々に撤退を試みるもがっしりと肩を掴まれてしまう。
扉に縋りついた孔明を軽く片手で引き止める膂力は、さすが護衛団。
感心している場合ではない。
「そうよーっ!ガルーダのチョコ食べたのなら、ネプのもーっ!!」
撤退宣言を聞き付けたのか、ネプチューンとガルーダも抗争を止め、こちらに走り寄ってきた。
最早『食べてない』と否定する事すら出来やしない。
「…さあ…口を開けて…孔明」
「大丈夫!ちゃんとネプ、味見してあるんだからぁ」
「往生際が悪いぜ!孔明!!」
じりじりと3人の乙女が詰め寄ってくる。
ほら、やっぱり3人一度に来たところで、手間が1つに纏まらなかったじゃないか。
孔明は自分の考えの正しさに満足する。
1つに纏まるどころかお互いが作用しあい、3×3の9倍くらいに増幅されて――。

「っっっ…!ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」
絹を切り裂くような策士の悲鳴が、BF団にのどかに響き渡った。


◇◆◇


「うーん…やっぱり予想通り、孔明の反応が一番面白いなァ」
本部のあちらこちらに仕掛けられた隠しカメラの映像を私室のモニターに映しながら、ビッグファイアはベッドに腹ばいになりながらさも楽しげに呟いた。
モニターには、策士執務室の状況がライブで流れていた。
ネプチューンが孔明の首にしがみ付きながらガルーダを蹴り、ガルーダはアキレスの髪を引っ掴みながら孔明の左腕を取り、アキレスはネプチューンを押し退けながら孔明の右肩後方から彼に顔を寄せている。
中央の孔明は、きっちり整えられていた髪も服もくしゃくしゃにし、泣きそうな顔で何事か喚いているようだ。
「声が聞こえないのが残念と云えば残念か。草間に頼んで、音声集積回路を入れてもらわないと」
恐ろしい事を飄々と云ってのけて、折った足をぷらんと揺らす。
孔明がこれを知ったらプライヴァシーの侵害だ!とさぞや青筋を立てて怒るだろうが、そんな事は構わない。
Me Boss.
You not. の世界である。
他にもサニー・ザ・マジシャンにチョコレートを貰った樊瑞や、上役の妻である扈三娘から受け取ったイワンなど、見るべき点は色々とあったのだが。
やはり孔明が、一番面白い。
これからも事あるごとにイベントを行ない、是非楽しませてもらおう。
いや、寧ろ楽しむべきだ。
普段は寝てばかりの自分なのだ、たまに起きた時くらい娯楽があってもご愛嬌だろう。
自分を退屈させない器量のある部下達を持つのは幸せである事よなァ、とビッグファイアはご満悦に呟き、ふんふんと鼻歌を歌うのであった。

「…あ…、そう云えば僕、誰からもチョコレート貰って無いや…」
思い出したように呟かれたこの台詞が新たな波瀾を巻き起こしたかどうかは、神のみぞ知るのである。













■おわり■






護衛団の仕組みは勇者シリーズの『ファイバード』主人公と同じとお考え下さい。色々と御免なさい。
相方に「どうして護衛団はボスではなくて孔明にチョコを?」と訊かれましたが。ボスへの想いは尊敬とかそういうので、孔明への想いはLOVEなのです。きっと。そういう事にしておいて下さい。


2003/03/13






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