★CANDY POP IN LOVE★














銀鈴は足取りも軽く、策士執務室へと向かっていた。
零れる鼻歌は教会に流れる聖歌に似て、美しい。
またその表情が天使も斯くやというような華やかさに満ち溢れた微笑を刷いていて。
それを見た通りすがりの者達は皆、少女の幸せを我が事の様に受け止め、微笑みながら彼女を見送る。
BF団に来てから早八年。
妙齢の――16という年齢は微妙な線だが――女性へと成長した彼女に向けられる、男性達の視線は熱い。
芸術品を思わせる凛とした横顔。長い睫毛が、濡れたように紅い口唇が一際美しい。
流れる黒髪は長く、絹糸のようにしなやかに風に揺れている。
歳に似合わぬボディラインは見事、としか云い様が無い。
称賛――或いは羨望、そして一種の欲望が混じった視線を、けれど銀鈴は一切顧みる事は無かった。
わざとではない。
目に入っていないのである。
何せ彼女のその深い色を湛えた双眸は、たった一人の人…恩人であり、また上司でもある『策士・諸葛亮孔明』その人しか見つめてはいないのだから。
好き。
何度もそう云って、押して押して押し捲って、序でに勢い余って押し倒して。
それでも手に入らない気高い人。
好き。
その感情が伝わらない事が切なくて、何度も涙した夜もある。
でも今日は、今日こそは思い知らせて見せるのだ。
あの朴念仁――と云えば聞こえは良いが、実は単に冷酷なだけだったりする――人に。
自分がどれだけ彼の事を好いているか。
銀鈴の鼻歌がより一層テンポを増す。
足取りもついでにスキップになってしまったりして。
胸に抱く可愛らしい包みに入ったチョコレートが心と一緒にかたかたと弾む。
だって、今日はバレンタイン・デー。
愛する人に思う存分愛を語っても、良い日なのだから。

バレンタイン・デーというのは聖ヴァレンティーヌスの祝日で、古代ローマの異教の祭儀と結びつき、愛の告白や贈り物をする習慣が出来た、そんな日だ。
それがこの本部内で微妙な意味合いを帯び始めたのは、十傑集一の問題児であるマスク・ザ・レッドのささやかな一言から。
『私の故郷ではバレンタインデーに女性から男性に向けてチョコレートが贈られる事になっている。愛の告白と共に、な』
曰く、男の甲斐性が試される日だ、とも嘯いた忍者はニヤリ、笑った。
その日に幾つチョコレートを貰った(つまり愛の告白をされた)かによって、それから一年間のステータスが決まるというある意味恐ろしい風習が彼の国にはあるらしい。
数だけではなくチョコレートの質自体も加味されるというのだから驚きだ。
また何やら『義理チョコ』なる、数を水増しする裏技もあるとか…何とも奥の深いものである。
元々『バレンタイン・デー』の概念が有り、その日に告白や贈り物の授受をしてはいたBF団員達は『告白OKでも、辛党だった場合チョコを受け取らないと成立しないのか』とか『本人が買った物は水増しに該当するのか』等と様々な意見を交し合っていた。
それだけで終わる筈だったのだが。
『面白いじゃないか』
その言葉を聞いて乗っかったのが誰をかあらん、総帥であるビッグファイアだ。
あっけらかんとそう云った少年王は、その風習をそのままこの本部内に取り入れてしまったのである。
つまり、今までの授受方法は一切禁止(併用でないところが彼らしいと銀鈴は思った)。授受の方向も、女性から男性へ、のみ。しかも内容はチョコレートのみと決めてしまったのだ。
あっという間に本部内はお祭り騒ぎになった。
男性陣はさり気無い優しさや男らしさを演出し、女性陣へのアピールをはじめ。
女性陣は何処までの範囲に義理チョコを配れば良いのかというリストを作り始めた。
でも皆、一様に表情は楽しげで。
その日なら、今まで秘めていた――引っ込み思案だった者もお祭り騒ぎに乗っかってくる可能性も高い――想いを打ち明ける事が出来るかも。
打ち明けてもらう事が出来るかも、という期待で。
それに銀鈴も便乗する事にしたのである。
「今日こそ…そう、今日こそは!」
幾ら孔明でもこの日にチョコレートを渡されれば、それと気付かぬ訳も無い。
何せ、その『決定』を下知したのは彼なのだから。
受け止めてもらう、そして何としてでも――例え腕ずくででも受け取ってもらう。
この自分の、八年間の込めに込めた想いを。
料理も菓子作りも得意ではない銀鈴だが、どうせ渡すなら手作りの方が良い、と一念発起してこの日の為に必死に特訓を重ねてきた。
胸元に大切に抱いているのはその結晶である。
おまけにどんな風に渡すか、までばっちりとシュミレーションしてきたのだ。
策を実行するにはまずシュミレーションを入念に行う事――孔明の教えは彼女にばっちり浸透していた。
銀鈴は廊下を歩きながら夢想する。
これを手渡した時、彼はどんな顔をするだろう。
考えただけでゾクゾク――もといドキドキする。
溢れる微笑みを堪えきる事が出来ず、うふふ…と銀鈴は一人、肩を揺らすのだった。

「孔明様…失礼します」
銀鈴はいつもより控えめなトーンの声をかけ、策士執務室の扉を開ける。
こんな『お祭り』の日でも普段と変わらず、彼は執務机に向かって黙々と書類を処理している。
そんな姿を愛しく見つめながら、そっと部屋に身体を滑り込ませると、孔明が『何事か?』と問いたげに顔を上げた。
銀鈴はちょっと肩を竦めて、彼に近付く。
こんな日に――何か用があるとすれば、決まっているのに。
どうしてこの人はこんなに世慣れていないのだろう。
何もかもが、存在それ自体が愛しくて仕方ない。
己の指が震えているのにちょっと驚きながら、銀鈴は持って来た包みを彼の前に差し出す。
さながら神に捧げる供物のように。
「銀鈴…これは…?」
「…私の…気持ちです、孔明様」
その一言で、中身が何か察したのだろう。
はっと孔明が確認するように銀鈴の顔を振り仰いだ。
それにこくん、と頷いて。
「受け取って…下さいますか?」
孔明が少し困ったように眉を寄せて、微かに微笑む。
白磁の如き頬が僅かに染まり、自分をただただ見つめている。
まるで銀鈴の真意が其処に映っているかのように。
だから、銀鈴もただ見つめ返した。
瞳に心からの気持ちを込めて。
それを受けて怯えるように――それとも喜びでか、彼の人の睫毛が震え、ほう…とあえかな吐息が漏れる。
「受け取って下さいますか?」
重ねて尋ねれば、彼は逡巡しながら指を伸ばし――また引いて。
けれどその所作で、解ってしまう。
愛しい人が出そうとしている答えが。
彼は――嫌な物なら即座に突っぱねる人だから。
「銀鈴…私…私、は…」
「何も云わないで下さい…もう…」
机の上で握り込まれた指に、そっと手を重ねると孔明はびくっと手を引こうとするが、許さず押さえ付けて。
「孔明様…」
頬に手を掛けて仰のかせると、彼は僅かに顔を逸らしたが、けれど決して突き放しはしない、その答えを。
「っ…ァ…駄目ですっ…銀…れ・…」
泣き出す寸前の子供のような表情、何を恐れているのだろう。
自分達の関係が、変わってしまう事を?
「…しー…」
耳元に直接囁きかければ、孔明はふるりと身を震わせた。
まるで生娘をどうにかしようとしている悪い男の気分だ――苦笑しながらゆっくりと彼を椅子に凭れさせてやると、恥じらいながらも応じるように孔明の瞳が伏せられる。
そして――そのまま――。

「いやーんっ!!なんちゃってーっ!!孔明様ってば可愛いんだからっ!!もうっ!!」
昨夜まで散々行った筈のシュミレーションを最終予行演習のつもりで行い、銀鈴は行き過ぎた
想像――既に妄想の域にまで達している――に身悶えながらその辺の壁をドガドガと蹴りつけた。
恋する乙女の脚力、恐るべし。
ぱらぱらと壁の漆喰が落ち始めている事にも頓着せず、銀鈴の蹴りは続く。
その姿を見咎めた人々は、先程まで彼女に向けていた熱い視線をさっと逸らして道を変えた。
お陰で彼女の歩いている廊下には、見渡す限り人っ子一人いないという状態で。
だが銀鈴は、そんな事は全然意に介さずに、というか気付かずに意気揚揚と闊歩する。
遂にウェディングベルをぶち鳴らす為の第一歩を踏み出すのだ、自分は。
『頑張って下さいね、銀鈴姉様』
チョコ作成特訓に付き合ってくれた、可愛い妹分のサニーの声が耳に蘇る。
「絶対に幸せになってみせるわ…そう、お父様の名に賭けて!」
勝手に賭けられては父親も困るだろうし、第一『幸せ』になれるかなれないかはあの策士が受け取るかどうかに掛かっている訳であって――それがそう上手くいくのだろうか、とはその銀鈴の呟きがうっかり耳に入ってしまった、通りすがりの不幸な人々の共通の想いであった事は云う迄も無い。
とにもかくにも、銀鈴は壮大なる野望を胸に、ぐぐっと可愛らしく小さい握り拳を作って、孔明の執務室を目指したのだが――。


◇◆◇


「ごめんなさっ…と、何だ、エンシャク殿ですか」
「銀鈴か…」
目的地まで後、廊下を二度程曲がれば良いという所まで来た時、銀鈴は丁度反対側から来た少女とぶつかり掛けた。
慌てて頭を下げようとしたが、相手がしかし誰だか認識した瞬間に『悪い』という気持ちが霧散する。
謝りかけて損しちゃったわ、と暗に込めながら銀鈴は下げかけた顎をくい、と上げて見せた。
「失礼。あんまりにも小さくていらっしゃるから、見えませんでした」
「フン、そんなに役に立たない目玉なら、くりぬいて代わりに銀玉でも詰めておくが良い」
相手もゆうに30cmはあろうかという身長差を物ともせず、低い位置からこちらを見下ろしてくる。
少女の名はコ・エンシャク。
『孔明の犬』という別名を戴く、策士の右腕のような存在だ。
右腕と云っても頭脳労働ではない、武力行使の方である。
普段は甲冑に身を包み、卓越した仙術を使ってまるで不死身の如く暗躍する、BF団内でも得体の知れぬ摩訶不思議な存在として捉えられていた。
団員ですら、彼女の本来の姿を知る者は少ない。
頬に掛かる両サイドだけ長く伸ばし、後は思い切り良く切り落としてしまっている濃い茶色の髪。
黒くぴったりとした上下の着衣は、細身ながらもきちんと筋肉のついた身体のラインを露わにしていた。
細くくびれた腰に挿されている大刀と双鞭が、少女の見た目を裏切っている。
銀鈴の胸位までしかない低すぎる身長は、けれど子供地味た顔の彼女には相応しくて。
猫を思わせる吊り気味な瞳は顔の面積の半分はあろうかという程大きくきらきらしている。
その双眸が、きりきりと常よりも吊り上って自分を睨みつけているのに気付き、銀鈴も負けじと睨み返した。
暫し、静かな廊下にぱちぱちと火花の散る音が響く。
エンシャクの実態が年端もゆかぬ少女だと知ったのは、そんなに前の事ではなかった。
あの日の事を、銀鈴は今でも昨日の事のように思い出せる。
一目見て、ああ、この子とは相容れない、これは敵だと即座に理解した。
その思いは多分一方通行ではなく、彼女からの敵意も向けられる視線に痛い程込められていて。
『仲良くするように』
元凶である孔明が自覚無くそう云ったのに耳を貸す事も無く、その日から二人は犬猿の仲になった。
そう、孔明を巡っての『恋敵』に。
顔を合わせれば口汚く罵り合い、時には足を引っかけて転ばしたり躓いたフリをして突き飛ばしたり。未だに取っ組み合いの喧嘩にまで発展していないのは、周りの者が止めてくれているお陰だ。
それを有り難いと思うか、余計なお世話だと思うかは、その場に孔明がいるかいないかにもよるのだが。
「そんなでかい物をぶら下げているから足元が疎かになるのだ。切り落としてくれようか」
エンシャクが歳に似合わぬ――とは云っても実際年齢は知らない。外見年齢はどう多く見積もっても銀鈴より年下だが、仙術使いの事だ、詐称している可能性もある――低めの声で、銀鈴の豊満な胸を指差した。
「そうね、エンシャク殿のその平たい…もとい陥没した――失礼、扁平な胸では足元もよーく見えるんでしょうね」
肉体的特徴を突いてきた卑怯なエンシャクに、銀鈴も同じやり口で応酬する。
「…胸が大きい女は頭の中が反比例して軽いと云うしな。そんなものあった所で…」
目に見えてエンシャクが腹を立てているのが解った。
彼女はとても直情的ですぐに感情が顔に出る。
だから普段はあんな珍妙な仮面をつけているのだろうか、というのが銀鈴の推論だった。
「そーんな迷信信じてるなんて、さすがはエンシャク殿。私だったらそんな恥ずかしい事、口にも出せないわ。科学的根拠の欠片も無い無知な考えなんて」
別に銀鈴とて何が何でも科学崇拝者、という訳ではない。
確かに出自柄、科学者としての道を歩んでいるのだが、オカルティックな事柄の一切を否定する気など、更々無いのだ。
実際十傑集のリーダーである混世魔王の仙術などは、称賛に値するだろう。
だが、そんな心情もエンシャクを前にしては呆気なく露と散ってしまう。
要は文句を付けられさえすれば、何でも良いのだ。
「だ、第一私はお前と違って実戦部隊だからな!そんな物邪魔になりこそすれ、何の得にも――」
「ええ本当に羨ましい。きっと拳を繰り出すのも剣を抜くのも簡単なのでしょうね。私なんてもう胸が邪魔で邪魔で…でもどちらが一体『女としての魅力』に溢れているかなんて…一目瞭然ですけど?」
もう肩が凝っちゃって、とわざと大儀そうに肩をぐるぐると回して見せると、元々低めのエンシャクの声が更に低みを増してきた。
「胸だけが女の価値だと思うなよ…貴様…。そも、そうやって女をひけらかすような低俗な真似、よく恥ずかしげもなく出来るものだ」
まるで『それしか能がない』と云われたように感じて、銀鈴もカチンとする。
事実、エンシャクと銀鈴のどちらが孔明の役に立っているかと云えば、それは間違いなく彼女の方で。
それが――常日頃からとても癪だった。
「あら、少なくとも価値の一部ではありますよね。それに私はどう頑張ったって『女』ですもの。…エンシャク殿こそ女を捨てながら生活なさるくらいなら、いっそ手術なさって身も心も男性になられたら如何です?」
怒りを噛み殺しながらしゃらっと毒を吐けば、エンシャクの肩がぴくりと震えた。
こういう口喧嘩の場合、先に切れた方が負けだというのは世界の不文律である。
今日の勝ちも頂きね、と銀鈴はほくそ笑んだ。
ちなみにこの二人で喧嘩をすると、ほぼ3:1の割合で銀鈴が勝つ。
銀鈴が気長なのではない、エンシャクが短気過ぎなのだ。
「それに――『女らしい女』か『男女』か…孔明様ならどちらを選ばれるかしら」
うふふ、と我ながら意地悪く笑えば、視界の中でエンシャクが震えを全身に行き渡らせながら、両手をクロスさせ、左手を腰に刺した刀に、右手を双鞭に掛けたのが見えた。
「そうやってすぐに暴力に訴えようとなさるの、止めてもらえません?これだから脳まで筋肉の人は嫌なのよ」
ぶちぃっ!と音がしたような気がした。
「きっさまぁ…っ!」
「何よ!やる気?!」
「やらいでかあぁっ!!」
我慢の限界が来たのだろう(今日は彼女にしては珍しく、我慢が効いた方だ)、ついにエンシャクが得物を抜き放った。
怒りで顔を真っ赤にしながらぎらぎらした瞳が、射殺せるものなら、と主張しながら銀鈴を睨みつけている。
負けじと銀鈴も臨戦態勢を取ろうと、普段から携帯している銃に手を掛けようとして――
「…こんな事してる場合じゃ無かった…」
ふと両手に視線を落として、自分が包みを抱えている事に気付く。
そうだ、こんな所でエンシャクとじゃれている場合ではない。
自分は一刻も早くこれを孔明の元へと持っていかねばならない身だったのだ。
他の女共から彼がうっかりチョコレートを受け取ってしまわぬ内に。
「珍しく気が合うな…」
エンシャクの呟きを聞き咎めて、銀鈴ははっとする。
まさか――という思いが頭を掠めた。
そしてその思いは確信へと移行する。
何故ならエンシャクが銀鈴を――正確には銀鈴の腕に囲われている包みを見つめていたから。
『やはり、お前もか――』
声に出さずとも、瞳が語っていた。
考えてみれば簡単な事。
自分とこれ程までに彼を争うエンシャクの事、この機を逃す筈も無いだろう。
恐らくエンシャクも、何処かに自分と同じような包みを隠し持っているのだ。
というか、自分は兎も角としてエンシャクはもっと早く気付いて然るべきだ、と
銀鈴は心の中で突っ込む。
何せ自分は隠す事無く堂々とこの包みを手にしていたのだから(尤も自分でも忘れかけていたのだが)。
さすが、脳まで筋肉。
どっちの目が節穴なのよ、と云いたかったが、それを云うとまた口喧嘩に突入してしまうだろう。
自分はこれ以上無駄な時間を過ごすつもりはない。
暫し、二人の少女は睨み合って――
「あっ!ちょっと待ちなさいよっ!」
「喧しいっ!待ってたまるかっ!」
同時に駆け出した。
スタートはエンシャクの勝ち、執務室までの距離は銀鈴の勝ち。
「私の方が近かったじゃない!どう考えたって私に先を譲るべきでしょうっ?!」
「馬鹿め!こういうものは結果が第一と相場が決まっている!悔しければ私より先に到着するのだな!」
きゃんきゃんとけたたましく尚罵り合いながら、二人の少女は廊下を疾走する。
「大体ねぇっ!エンシャク殿みたいな男女が孔明様にチョコを渡そうだなんて、お笑いだわ!」
「何を抜かす!それを云うならお前が如き下級の者が孔明様のお目に触れるだけでも不敬だ!」
段々と息が上がってきたのだが、それでも口は止まらない。
黙って走る事に専念していればその分効率も上がるのだろうが、そこはそれ、黙ってエンシャクと併走するなど、銀鈴の沽券に関わる。
「だって、孔明様が是非に私を秘書に、ってお傍に置いて下さるんだもの!文句があるなら孔明様に直接抗議すれば良いじゃない!」
「それはお前が他に使い勝手がないからだろうがっ!自分の無能を棚に上げて、都合の良い解釈をするなあぁっ!!」
しかし、執務室が近付くにつれ、段々と二人の距離が大きくなっていった。
足の早さではエンシャクに一日の長がある上に、銀鈴には『胸』という足枷が有る。
無防備に走れば揺れて痛いし、かと云って支えながら走れば速度が落ちてしまうし。
しかもそんな恰好、かなり間抜けだ。
歯噛みしていると、エンシャクが走りながらこちらを振り返り、にやり、笑う。
「ふん!そのご自慢の胸が仇になったようだな!」
「くっ…」
ぐうの音も出ない。
痛い所を突かれたのもあるが、走り過ぎで息が切れていて、無駄口を叩く余裕がないのだ。
悔しい、悔し過ぎる。
その銀鈴の悔しさを増幅させるかのように、エンシャクがハハハ!と高笑いをかました。
ああ、思いっきりヒールであの後頭部を殴ってやれたら、どんなに気持ちが良いだろう。
「さらばだ銀鈴!そこで亀のようにのろのろ走っているが良い!!」
「きぃぃぃぃ〜っ!!!」
必死に追撃するも、どう頑張ってもエンシャクの足には追いつく事が出来ない。
折角孔明との愛がついに成就すると思ったのに。
ああ、神様。
もしいらっしゃるのならあの男女の足を止めて下さい。
止めて下さるのならば――私は命を捧げたって構わないのです。
ええ、自分の命ではなく、エンシャク殿の命ですが。
ご入用ならシズマ博士の命も捧げます――。
甚だ勝手な祈りを捧げながら懸命に走り続けるが、先を行くエンシャクは後、角一つ曲がれば孔明の執務室に辿りついてしまう。
うる、と銀鈴の視界が僅かに涙でぼやけようとしていた。
その時。
「うわっ!」
先を走るエンシャクが、何かに足を滑らせたのか声を上げてペタン、と尻餅をついたではないか。
「っ!チャンスッ!」
何という僥倖。
馬ー鹿、間抜けーと揶揄するのは忘れずに、銀鈴はにやり、不敵に笑うと素早く十字を切って神に感謝を捧げると、その脇を駆け抜けようとした――のだが。
「行かせるかっ!」
しかし、抜かそうとした瞬間、エンシャクにがしっ!と足を掴まれて銀鈴は顔面から廊下に激突する羽目になる。
がつん、という派手な音が自分の額の辺りから響いて銀鈴は一瞬意識を失いそうになるが、すぐに気を取り直してがばっ!と勢い良く身を起こした。
「何すんのよっ!アンタはあぁっ!!」
怒鳴りつけるも、涙目になってしまっているから迫力に欠けるだろう。
案の定、悪びれずにククク、と笑ったエンシャクが一言、云った。
「天罰だ」
「何が天罰よーっ!!!!!」
怒りと痛みとでふらふらしながらも、銀鈴はエンシャクに食って掛かる。
今度こそ取っ組み合いになろうか、という時。
「一体何事ですか」
「「!孔明様」」
当の孔明が姿を現したのだった。
さすがに執務室まで残す所10mも無い場所での怒鳴り合いは拙かったかしら、と銀鈴は少し恥らった。
喧嘩している所なんて、見られたくなかったのに、と。
恋する乙女はいつも、『大事な人』には必要以上に自分を良く見せようというきらいがある。
尤も、今更どう隠し立てしたところで隠れ様の無い程本性はバレまくっているのだが。
「銀鈴、エンシャク。何の騒ぎですか?」
彼は少し眉を顰めてひょこりと扉からこちらを見、渋い顔をしている。
その玉顔を見ただけで我ながら現金だが、あっという間に機嫌が直ってしまった。
顔を赤くしたまま座りこんでいるエンシャクの足を孔明に見えないようにぎゅうと踏み躙って、ささっと身形を整えると銀鈴は彼の元に小走りで歩み寄った。
ついに、ついにここまで漕ぎつけたのだ、という興奮からか眩暈を憶える。
(い…いけない、ここで詰めを誤ってはお仕舞いよ!銀鈴!)
自分で自分を励ましながら、ドキドキと高鳴る胸の鼓動を必死に抑え込みつつ緩く膝を折って挨拶をすると、孔明も頷くだけの挨拶を返してくれた。
ふわり、彼が動くと品の良い香の香りが鼻腔を擽る。
(あああああっ!孔明様の香り…)
シュミレーションでは感じ得なかった『実体』の感覚に、気を抜けば鼻血を吹いてしまいそうだ。
既に『恋する乙女』モードから段々『変態』モードに移行してしまっている事に本人が気付かないのは、ある意味幸せな事だろう。
「お騒がせ致しまして申し訳ありません。ですが、孔明様がお気になさる事は何もありませんわ」
理由を事細かに述べれば、孔明がエンシャクの意図に気付いてしまう。
それだけは避けねばならないとにっこり笑って追求を封じれば
「…廊下は走らないようになさい」
孔明の口調が何かを諦めたようなものだったのがちょっとだけ気になったが、そんな些細な事はあっさりと忘れるように心掛けた。
視界の端で、まだエンシャクが足の痛みに悶絶しながらも何か云いたそうにしていたが、無視して銀鈴は孔明の前に――彼の視界からエンシャクを排除するように――歩み寄る。
「はい、今後気を付けます」
至極良い返事でまたにっこりと微笑めば、孔明が『本当に解っているのか?』と問い質したげに自分を見つめていた。
(イヤだ…孔明様ったら…そんな風に見つめられると…私…)
真正面から合った視線は外される事は無い。
東洋人にも珍しい、濡れたような純黒の瞳がひたと自分を見つめていて、銀鈴はもじ、と身動ぎをした。
『話をする時には相手の目を見る事』というのが孔明の信条らしいから。
でも――こんな時までそんな風にされては、居た堪れない。
というか、辛抱堪らなくなってしまう。
(誘って…らっしゃるみたいに…)
本人が聞いたら吐血しただろう思いを抱いて勝手に盛り上がりながら、銀鈴はエンシャクの存在をきっぱりと忘れ去り、花に屯する虫になった気分で孔明に近付いた。
「…銀鈴…?」
「孔明様…私…大事なお話があって…」
熱っぽく――若干演技がかっている――云えば、彼は見当も付かないという様に僅かに小首を傾げる。
「何ですか?」
「あの…私…」
『部屋の中』に『二人きり』でいた時のシュミレーションしか行なってはいないが、何とかなるだろう。
銀鈴は今こそ勝負!ときっと顔を上げた。
「孔明様っ…私っ…!」
「そうはいかんぞ!銀鈴!」
がくり。
気合充分だっただけに、潰えた時も激しい。
銀鈴は割って入ったエンシャクの声に怒鳴りつける気力さえ無くして、へなりとその場に腰を落とした。
「おや、エンシャク…何やら先程悶絶していたようですが、大丈夫ですか?」
「ご心配には及びません、孔明様!」
はしゃぐエンシャクの声を頭上に聞きながら、銀鈴はぷるぷると震える。
先刻倒れ込んでいる間に2、3発撃っておけば良かった――そんな危険な思いすら去来した。
だが
「孔明様…お忙しい所申し訳御座いませんが、実はお話が御座いまして御前罷り越しました。お時間を頂戴しても宜しいでしょうか?」
きびきびとしたエンシャクのこの台詞に、がばっ!と銀鈴は身を起こす。
冗談じゃない、ここまで来てトンビに油揚げを攫われてなるものか。
「ちょっ…ちょっと!孔明様には私が先に――」
「黙れ」
先程の意趣返しのつもりだろうか、げしっ!と蹴られてころころり、と銀鈴は後ろに2回転、でんぐり返った。
「なぁにすんのよっ!重ね重ねっ!」
「それは私の台詞だっ!」
自分で自分を誉めたくなるくらいの素早い所作で瞬時に身を起こして、今度こそ銀鈴は銃を抜き放つ。
こうなったら孔明の前であろうがなんだろうが知った事ではない。今ここで始末しておかなくては、後々どれだけの損害を被る事か。自分達は倶に天を戴かざるべき敵だ。
殺気が二人の間を駆け抜ける――と。
「…では、ケリがついたら声を掛けて下さい。用がある人だけ、良いですね?」
呆れきったような孔明の声に、はっと我に返った。
見やれば佳人はすたすたと部屋に帰ろうとしているではないか。
「「こここっ、孔明様っ!」」
「鶏を部下に持った憶えはありません」
「そんな冷たい事を仰らないで下さい〜っ!」
慌てて取り縋り、そのままなし崩し的に3人で部屋に一緒に入ってしまう。
「わ、私とエンシャク殿は、同じ御用で伺ったんです!ね?エンシャク殿?」
孔明の機嫌を損ねてしまうのは非常に拙い。
この際目的が同じなのだ、一人一人事に当たるよりは、二人で当たった方が良いだろう。
『敵の敵は味方』の心境に近い。
エンシャクもそれと察したのか「銀鈴の申す通りです」と頷いた。
「では、じゃれていないでさっさと用件を云いなさい。私も暇では無いのですよ」
全く…と呟きながら、孔明が席に戻りこちらを見上げてくる。
既視感。
シュミレーション通りの展開に、銀鈴の胸に甘酸っぱい感情が込み上げてくる。
余計なおまけはいるものの、正に期待通りの運びになった。
ついに、この想いを打ち明ける日が来たのだ――常日頃から打ち明けまくっているが、やはりこういうイベント事はまた別格である――と思うと、苦節8年の道程が懐かしい。
今日こそこの不毛な関係(エンシャク含む)に終止符を打つのだ!
銀鈴はきっ!と視線を強めて孔明を見据え、つかつかと彼に近付いた。
「孔明様!」
「なっ、何ですか」
「どうしても聞いて頂きたいのです、私の…いえ、我々の気持ちを…」
エンシャクもさっと銀鈴の横に並び立ち、真剣な眼差しを彼に向けている。
ふと、彼女の膝が小刻みに震えている事に、その時銀鈴は初めて気付いて驚いた。
普段は傍若無人な振る舞いを見せるこのエンシャクが――ただの小娘みたいに震えている。
これが、恋の力。
人に持っている以上の力を与え、また持っている力を奪ってしまう。
馬鹿みたいにくるくる空回りしたり、天才的な策士になれたり。
辛い事もある。
怖い事も、苦しい事もある。
泣いたり、喚いたり、争ったり。
良い事なんて本当に少なくって。
だけどそれ以上に恋は素敵。
無くしかけているものを思い出させてくれたり、柔らかな気持ちにさせてくれたり。
時々『敵』を味方にしたり?
ロマンティックに、ドラマティックに、日々を彩ってくれる。
体当たりで一杯一杯の自分が恥ずかしくなる時もあるけれど。
恋は本当に――素敵だ。
「孔明様…これ…私達の、気持ちです」
銀鈴はそ、とエンシャクの片手を握り、孔明に持っていた包みを差し出した。
エンシャクが弾かれたようにこちらを見たのに、こくん、と頷いてやると、彼女も意を決したのかごそごそと包み――凡そ彼女らしくない可愛らしいラッピングだった――を取り出して銀鈴と同じように孔明に差し出す。
「…これは?」
「あの…チョ、チョコレートです!」
きょとん、と自分達を見上げる孔明に、銀鈴が云い放った。
賽は投げられた――後は彼がこれをどうするか。
自分のが受け取ってもらえなかったらどうしよう。
エンシャクが断わられても可哀想だ。
先程まで相争っていた事を綺麗に棚に投げ上げて、銀鈴は審判の時を待つ。
エンシャクの震えが移った様に、自分も震え出している事には気付かなかった。
「チョコレート…ですか…」
僅かに目を眇めた孔明が、つ…と机に置かれた二つの箱を指でなぞった。
「っ、はい!」
エンシャクがきゅ、と握り合っている手に力を込めてくる。
どきどき、とお互いの鼓動が混ざり合って、もうどちらがどちらのものなのか判然としない――。

「最近の流行りなのですか?」
「「――は?」」
待ちに待った答えに、思わず二人して間抜けな声を上げてしまう。
「は、流行りと仰いますと…?」
「いえ、今日は何やら朝からチョコレートを持ってくる人が多いんですよ。十傑集の方々までもが『一つも貰えないのでは哀れだからな!義理チョコだ』等と訳の解らない事を仰って…」
思わずエンシャクと顔を見合わせてしまう。
本気なのだろうか。
仮にも彼が布告した事柄なのに。
こくこく、ふるふる、と意味も無く首を振り合って、また同時に二人して孔明にばっと向き直る。
「お…覚えてらっしゃらないのですか?孔明様っ…」
まるで悲鳴のようなエンシャクの声だった。
「何がですか?」
「あの…今日が何の日か、ちなみにご存知ですよね?」
まず何処から間違っているのか確認し直さなくては、と銀鈴は尚も何か云い募ろうとするエンシャクを制して、孔明に尋ねる。
しかし彼は――
「今日は…幹部会議の日だったと認識していますが?」
ぱたり、と握り合っていた手が、どちらからともなく離された。
敵は内にあり――。
「折角持ってきて頂いて申し訳無いんですが、私は甘い物が苦手なんですよ」
困ったように――ああ、こんな場面で見る筈では無かったのに――少し眉を寄せながら笑んで、孔明がそ、と包みを銀鈴達に押し返した。
「お気持ちだけ、頂いておく事にします」
にっこり。
無敵の――少なくとも銀鈴とエンシャクにとっては最大限の威力を発揮する最終兵器だ――微笑みを向けられ、二人は敢え無く撃沈したのであった。


◇◆◇


「…残念…だったな」
「…そうね」
とぼとぼ、とまるで市場に売られていく子牛のように、銀鈴とエンシャクは肩を落として執務室から帰路についていた。
それぞれの手には、突き返された――多分孔明にはそんなつもりは無かったのだろうが――包みがあった。
「せーっかく手作りしたのになぁ…」
銀鈴はむぅ、と若干むくれながら箱をぽぅん、と軽く上に放ってキャッチし、そうぼやけば
「何っ…手作り……か…」
先を行くエンシャクが恐れをなしたようにこちらを振り返る。
「そうよー。エンシャク殿は?」
「わ…私は…先日の作戦中に…『ごでぃば』なる有名らしい店に行って買い求めてきた…」
「えー、凄いじゃないですかーっ!すっごく美味しいらしいですよ?ソコ」
でも、幾ら美味しくても、幾ら頑張っても受け取って貰えなければ同じだ。
その思いはエンシャクも同じだったのだろう。
ふと目が合って、くす、と苦笑いを零し合う。
「まさか忘れてらっしゃるなんて思わなかった!ほんっとうに天然なんだから!」
「そうだな…完璧な方だと思っていたが…まだまだ読みが甘かったようだ。結局の所私は、あの方の一面しか見ていなかったのだな」
少し淋しそうなエンシャクの背中を笑顔でぱしっと叩いた。
「諦めちゃうの?」
「…いや…もっと知りたくなった」
にやり、いつもの不敵な笑みをエンシャクが零す。
それに――何故か安堵している自分がいた。
「なんだ!諦めてくれたら楽でしたのに」
「そうは行くか!お前こそとっとと諦めてしまえ!」
軽口を叩き合って、そして目と目を見交し合って
「…ふふっ」
「ははっ」
笑った。
まるで戦友のような感情で以って――。


◇◆◇


「あーあ…本当に拍子抜け」
ぐったりと疲れた身体をぽすん、とベッドに預けて、銀鈴は溜息をついた。
「まさかああいうオチで来るとはねー…」
正攻法で行っても通じない――というか、相手にしてもらっていないのだが――から、搦め手で行ったのに、それさえも通じないなんて。
本当に手ごわい、人。
でもエンシャクに云った通り、諦めるつもりなんて更々ない。
今日のところは仕方が無いから引き下がろう。
でも、今度の機会はそうは行かないんだから。
「…覚悟しておいて下さいね、孔明様…」
あふ…と欠伸がもれた。
良く考えれば昨夜はチョコレート作りだのシュミレーションだので、殆ど徹夜に近かったのだ。
心地よい倦怠感が全身を覆って。
「夢で…逢いましょう…ね…孔明…様」
ちょっとくらいならエンシャク殿だって出てきても良いわ――そう思いながら。
戦い終わって日が暮れて。
そして、銀鈴は幸せな眠りへと落ちていったのだった。


こうしてバレンタイン・デーの熱き戦いは終わりを告げた。
だが、銀鈴の『孔明攻略』がこれで終わった訳ではない。
新たに『戦友』というポジションを得たエンシャクと共に、これからも彼女は爆走するだろう。
その想いがいずれかの形での終結を迎えるその日まで。


そう。
これからも――戦いは続く!













■おわり■






銀鈴大全壊(誤字に非ず)なもしもシリーズ。何処まで行っても何をやっても孔明受。
というか、策士様にチョコを持ってくる十傑集って一体どうなんでしょうか。きっとお歳暮代わりか次回のボーナス査定に向けての賄賂なんでしょう。多分。天然系策士に駄目っぽさフルスロットル。


2003/03/03






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